宵待ちに耽る｜リアクション

宵待ちに耽る

▽アノヒノソラ

　一歩、病院の外に出ると、蒼澄永姫は夏が終わったということを肌で感じた。
（もう秋なのね……）
　しみじみと思って茜空を見上げると、ふと永姫の脳裏に、思い出が蘇る。漠然とした彼との思い出と、あの日の明確な思い出。昔の恋人との思い出だ。
（突然、どうしちゃったのかしら）
　くすりとわざとらしく笑みをこぼしてから、永姫は浮かび上がった思い出に色を塗っていくように、一つ一つを思い返す。
　彼との距離は心地よかった。とても楽だった。
　そしてそれが無理をして作った距離感ではないこと、なによりも永姫は安堵していた。
（……つまり私達は似ていたのね）
　互いに余計なことを聞きもしなければ、言いもしない。まわりから見れば冷めた関係だったことだろう。けれど永姫はそれでよかったし、それがよかった。
　詮索はしない関係。嫉妬もしない関係。
　もしかすると、彼は他にも女がいたかもしれない。けれどそれがどうしたという。もし他に女がいたからといって、永姫と彼が共にした時間が変わるわけでも、彼の側にいて感じた安堵が侵されるわけでもない。
　もちろん愉快なことではないけれど、事実がどうだったかを知らないのだから、考えるだけ時間の無駄だ。
　考えなかったことは、他にもある。
（結婚は考えなかった）
　理由は、一つではないだろう。
（でも共に時間を過ごすいいパートナーだったわ）
　永姫は鞄から携帯電話を取り出し、アドレス帳から彼の名前――いまだに消せずにいた――を探す。
　表示された名前を指でなぞる――などという、未練がましいことはしなかった。永姫自身が別れに納得していたから。
（彼とはとても近いところで寄り添えたわ。けれど、ピースがぴったりと嵌る関係ではなかった）
　それはどちらが悪いということではない。心地のよい関係を続ける上で、致し方がないことだった。
（最後の最後、薄い硝子を破ってまで寄り添うことはなかったから――私は、彼にも家族のことを話さなかった）
　そしてそれは彼も同じだ。永姫たちは、傷つき、わめき、痛みを共有することよりも、心地よい関係が少しでも長く続くことを選んだ。
　たとえその先にあるのが別れだとわかっていても。
　永姫は携帯電話の決定ボタンを押す。メール作成画面に入った。今更、彼に伝えたいことなどない。
（今なら……）
　ないはずだった。
（もしかしたら彼が隠したなにかを聞けるかもしれないわ……）
　では永姫は彼に聞かれれば、家族のことを、自身の過去を話すのか。
　答えはわかりきっていた。
（……なんて、都合がよすぎるわね）
　自嘲しながら、けれどそれでもメール作成画面は開いたままだ。
（本当は気がついてたの）
　ある時を境に、突然、彼の様子が変わった。
（それでも私からは切り出さなかった）
　徐々に、徐々に、破滅へ向かっていることを理解しながら。
　別れを告げることも、別れたくないと請いすがることもできずに、時間ばかりが過ぎていく。
　そして、あの日。
（なんとなく予感はしていた）
　仕事帰り。いつものホテル。彼の呼び出し。
（男の心変わりなんて慣れているから、ね）
　また自嘲の笑みがこぼれる。
（それに私たちは結局、どちらかが飽きたら終わりの関係だったもの）
　その度に、胸に秋風が吹き込む。
（でも、彼の隣は心地よかったから……）
　あの日、永姫の胸に寂しさが広がった。透き通った水に、墨汁を垂らしたようにじんわりと、じんわりと。そしてその寂しさは、小さな傷跡を残し、今でも風が吹き込むのだ。
「……ふぅ」
（なんで、急にこんなこと思い出しちゃったのかしら）
　永姫はずいぶんと長い間眺めていた携帯の画面から視線を外し、おもむろに空を見上げる。
（ああ、そういうことなのね）
　こうして思い出してしまうのは、きっと、空の色が似てたからだ。