いつかのあの日の、｜リアクション

いつかのあの日の、

「ん？」
　酒を片手、焼き鳥に伸ばそうとした手を止め、高久は黄昏色した影に眼を上げる。
　大地の色した鋭い眼が一瞬だけ大きく見開き、次には笑みに和らぐ。
「あぁ先生、帰ってきてたのか」
「お盆だからな」
　高久に『先生』と呼ばれ、くたびれた背広の上着を腕に引っ掛けた縁なし眼鏡の初老の男は柔らかく笑んだ。
　『先生』の笑顔を久しぶりに見た気がして、そう言えば先にあの鳥居の向こうで会った時はお互いに仮面を被っていたことに高久は思い至る。
「せっかくだから食べてくれ、ほらコレ俺のおすすめの日本酒だ」
　勧められるまま、『先生』は高久の隣に座し、高久の酌を受けて杯を傾ける。糠漬けを美味そうに齧る。
「あっちはどういう所だ？」
「うん？」
「やっぱり綺麗な女性とかいるもんなのか？」
「浮世から離れてるせいか、どの女性も笑顔が素敵だよ」
「そうだな、笑顔の女性はみんな綺麗だよな」
「志波は相変わらず天然女たらしな発言をするよな」
「……そうか？」
　腹の底から不思議そうに首を捻る高久を楽しげに眺め、『先生』は笑顔のまま酒を含む。
「志波とまた酒が飲めて嬉しいよ」
「俺もだ」
　もう二度と会えまいと思っていた人とたわいもなく駄弁られるのが嬉しくて、高久は頬を緩める。
「学生時代から変わってないな、その笑い方は」
　何のてらいもなくそう言われて、流石に照れた。照れ隠しに、前の長椅子のピーターに一升瓶を差し向ける。
「高久君のお友達かい？」
　酒を受けつつ問うピーターに、高久は穏かに笑んで答える。
「高校時代の恩師だ。いい先生だったな、生徒から慕われてた」
「ヤンチャで手がかかるが放っておけない生徒だったな」
　隣で悪戯っぽく笑う『先生』の言葉に、高久は思わず言葉を詰まらせる。言ってくれるなあと苦笑いして、『先生』のコップにも酒を満たす。
　『先生』は元生徒からの酒にふわりと目元を赤く染めて笑い、風鈴の音が揺れる夕暮れを仰ぎ、――風が流れるように、姿を消す。
「あれ？　さっきの人は？」
　祐と何度目かの乾杯をしていたピーターが不思議そうにぐるりを見回す。
「帰ったんだろう」
　『先生』が座っていた場所に置かれた空のコップを見下ろし、高久は動じることなく静かに酒を含む。
　黄昏の色だけを満たすコップから夕暮れの空へと視線を移せば、自然と笑みが零れた。
「次に会えるのはいつになるやら」
「懐かしい人に会えたんだねえ」
　日本に馴染んだイタリア系米国人のピーターは優しく笑う。
「お盆だからな」
「亡くなった人が帰って来る季節、だっけ？」
　高久の問いに、今度は馴染みがなさそうにちらりと首を傾げて、けれど決して否定はせず、高久の視線を追うて夕空を仰ぐ。
「本当に帰ってくればいいね」
　ああでも、とちょっと困ったように頭を掻く。
「寝子島はアメリカから遠いから、さすがに私の縁者がここまで来るのは大変じゃないのかなあ」
「距離なんか関係ないっすよー」
　のんびりと言うピーターの隣で美味い酒をすいすいと飲み進めながら、祐はピーターの口調につられてのんびりと言う。口の中に残る酒の味に頬を緩め、飲み仲間の男達と同じに空を仰いで、
　――視界の端の黄昏の道、懐かしい人達の背中を見た。
「っ！？」
　一瞬で酔いが吹き飛ぶ。着物姿の二人の背中を黄昏の光に視線だけで追う。
(いやいやいや、もうとっくに居ないはずじゃ……)
　もしかしてこれも夢かな、と容赦なく自分の頬をつねって、その痛みに夢でないことを確認する。立ち上がって二人の背中を追おうとして、止める。
　立ち竦む息子に気付かず、着物姿のよく似合う二人は仲睦まじく顔を見合わせて微笑みあう。
　小さい頃に出て行ったきり帰ってこなかった父が、母と共に楽しそうに笑っている。
　病床に伏せたきり戻らなかった母は、病院での姿よりずっと綺麗に見えた。病みやつれる前の朗らかな笑顔を父に向けている。
(もう届かねんだな)
　何となく話しかけるのは憚られるような気がして、祐は夕暮れの路地を並んで歩いて行く亡き両親の背中を見送る。
(俺は上手くやってるよ。心配いらねぇからどうか元気で)
　せめても、心の中でだけそっと語りかける。
(でも、たまに見守っててくれると嬉しい)
　二人の背中が夕風に消えて、祐は中途半端に宙に差し伸ばしていた自分の手に気付いた。息を吐いて手を下ろす。どかり、腰を下ろす。
「あー飲みすぎたかもしれねぇ」
　カラリ、磊落に笑う。
「まあいっか！」

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いつかのあの日の、

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