落ちるだけの｜リアクション

落ちるだけの

　青空の光に長い髪が紅茶色に透ける。
　空からまっすぐ落ちながら、橘明里は髪と同じ色の大きな瞳をきょとんと瞬かせる。
　体に巻きつく強い風も、耳元で唸る風の声も、真っ逆さまに落ちていくまま思うようにならない体も、いつか昔、
(おなじことあったな)
　笛のような音で風が笑う。伸ばした手に雲の尻尾が掠める。雲の欠片に指先が冷たく濡れる。
　空に伸ばした手で何を掴みたかったのか。誰の手を助けたかったのか。いつか昔にあったのと同じ目にあっているこれは、この今は、
(きっとこれは夢)
　空の青を見つめて、明里は小さな胸に大きく息を吸い込む。
(ずっと忘れないようにするための夢)
　夢の中でなら、現実世界で今は使えなくなってしまっている天使の力が使える。
　空の光を集めるように両手を広げて、明里は心に描く天使の力を解放する。紅の髪がふわり、柔らかく揺れる。背中に天使の純白の翼が広がり、頭には天使の輪が輝く。手首と頭にも現れた小さな翼で舵を取り、明里は空の真中で静止する。くるり、空中ででんぐり返って体勢を整える。
　人の姿から天使の姿に戻り、明里は雲がのんびりと流れる広い空を見回す。そうして、海に浮かぶ羊雲の辺りから真っ逆さまに落ちていく金の髪の少年を見つける。
　翼を羽ばたかせ、風を味方につけて空を翔ける。
　落ちる人を助けることに疑問はない。明里はみんなの幸せを願う天使だから。それは明里が天使だった頃の仕事だったから。
　眠るように意識を失っている少年の手を両手で掴む。翼を必死に羽ばたかせ、少年の重みを宙に支える。
「よいしょなの！」
　頭ひとつ分は背の高い、オレンジがかった金の髪の少年の体を一生懸命に抱え、明里は空高く舞い上がる。目指すは空の天辺、鯨の形した雲の広場。
(頑張るの)
　青い空に浮かぶ雲の広場に、一向に目覚めない少年の体をふんわり横たえ、明里は弾む息を整える。疲れた翼を風に撫でてもらう。
　ホッと一息、ちょっとだけ一休みと瞼を閉じて、
　――開けてみれば、明里はまた空を落っこちていた。下へまっすぐ、バランスを失ったまま。
　体のずっとずっと下の方から、波の音が遠く聞こえる。
(うっかりしてたのなの)
　うっかりしていて、天使の控え室から落っこちた。
　風に暴れる自分の髪の隙間、自分と一緒にもうひとつ落ちるナニカが横目に見えた。
　落ちながら、風に弄ばれながら、明里はそのナニカに手を伸ばす。
(助けなきゃ)
　明里はそのナニカを知っている。
　『それ』は、明里の友達。
　忘れちゃいけないお友達。
　助けなきゃいけないお友達。
　必死に伸ばした手が冷たい雲に飲み込まれる。視界が灰白色に覆い隠されてしまう。友達の手を掴みたくて両手をどれだけ伸ばしても、雲の中には何も掴めない。
　雲が切れる。眩しい青空に射抜かれてた瞳を細めて友達を探して、空のどこにも友達を見つけ出せなかった。見失ってしまった。
　身を捩る。眼下に広がる海と大地を見下ろす。
　友達はきっとあの地上に落ちた。
(あたしのお友達)
　助けなきゃ、いけない。
　使うことが出来る天使の力は、残り一回きり。
　控え室できちんと充填しておけば、と思ったのは一瞬。考えなくちゃいけないのはそこじゃない。
(戻るか、地上に行くか)
　天と地上とを交互に見る。
　空に戻ればいつもの日々。だけどいつものお友達のいない日々。
　地上に行けばお友達を探すことが出来る。
(だけど天使の力は……)
　天に、帰りたい。
　友達を、探したい。
　明里は空の彼方に手を伸ばす。
(帰っちゃいけないのなの)
　空に向けて小さく手を振る。
　明里は後者を選ぶ。無くしたくないから。
　見つけるために、明里は天から飛び出し地上を目指す。