落ちるだけの｜リアクション

落ちるだけの

　紅茶色の髪した天使が翼を羽ばたかせる。青空に飛び去る、小柄な少女の姿した天使の後ろ姿を夢現の気分で眺めて、ぼんやりと瞬いて、次の瞬間。
　背中の下に確かにあった、ふうわりとした雲のような感覚が唐突に失せた。思い出したように風が喚く。体の周りに雲が渦巻く。
(うぁー……)
　オレンジがかった金の髪が視界の端で激しく揺れる。雲の冷たい粒子が頬にくっつき、風にさらわれる。瞬きのうちに雲を抜け、青空の最中に呉井陽太は放り出される。
　首を僅かに逸らして、遥か真下に広がる青空色した海を確かめる。
(落ちていってるなぁ)
　陽太は眼鏡の奥の細い瞳をますます細める。青い海は時折緩やかに波打つ。息をするかのように白い波を崩す。
(しかし、なんで落ちてるん？)
　鼓膜が痛むほどに風が煩くて、思わず両手で耳を塞ごうとして、風に締め付けられた身がほとんど自由に動かせないことに気付く。マイペースな瞳が僅かに歪む。眉間に力が籠もる。
(ヤバイなぁ、)
　このまま落ちてしまえば、もしかすると死ぬかもしれない。
　冷たい海の姿して待ち受ける死を視界の端に捉え、小さく息を吐き出す。
(いやぁ、死ぬのは困るなぁ……)
　のんびりと死を拒絶する。
　思い浮かぶのは、寮の同室で一緒に生活してきた寂しがり屋のルームメイトの顔。
(多分……オレがいなくなったら、すんごく泣きそう……)
　電気の消えた部屋の隅っこで三角座りに膝を抱えて泣いている姿が瞼の裏に浮かんだ。震える手にはわら人形。
　寂しがり屋のルームメイトが念仏を唱えながら復活の儀式に取り掛かるあたりまでうっかり想像して、陽太は慄くように首を横に振る。そういう思いはさせたくない。
　弟のように思う友達のその次に、実の弟の顔が浮かぶ。
　弟も、ルームメイトのように泣くだろうか。
(……どうかなぁ……)
　弟の夢を潰すようなことをしてしまった挙句、大喧嘩をした。あれ以来、一緒に演奏もしていない。
(ヤダなぁ、ケンカしたままお別れなんて)
　風に体を押し潰されながら、もがくように手を空に伸ばす。
(……やっぱ、ちゃんと仲直りしたい)
　仲直りして、また一緒に演奏したい。
「あ……っ」
　イリュージョンランドの野外音楽堂にあるピアノも、まだ直し切れていない。壊れたピアノを直したら一曲弾くと約束をした。そうだ、あの約束を違えるのは嫌だ。
(マジ死んでる暇ないって……)　
　それでも、体は落ち続ける。どれだけもがいても周りに視線を巡らせても、落下を止めるようなものは見当たらない。
　風を受けた体がぐるり、予想も出来ない方向に回転する。自分の体が制御できない。世界が回る。海と空が交互に入れ替わる。このままでは間違いなく海に落ちる。
　助かる確率は限りなく低い。それは理解していても、死にたくなんかない。
(落ちた衝撃を少なくしたいなぁ)
　冷静なのか抜けているのか、急速落下の頭で静かに考えを巡らせていて、
(……あ)
　ふと気付いた。風に煽られてシャツの裾が捲れあがっている。
(ヘソ丸出しじゃん、オレ)
「ヤダヤダ」
　このままじゃ海面に腹打って中身が出ちゃうだろ、と両手で裾を押さえる。
「腹ガードしておこう、そーしよー」
　暢気に歌うように言って、漸く気付いた。ここまで結構考える余裕があるって事は、
「コレって夢だねぃ」
　頬が知らず苦笑に歪む。それでも落下の勢いは弱くはならない。
　落ちる夢の微妙な現実感の中、それでも一応腹を打たないようにシャツの裾を押さえたまま、――海に、落ちる。
　高らかに上がる水柱を、海に落ちて沈んでいく自分を、斜め上から他人事の視点で眺めて、
(ほら、やっぱり夢だわー)
　陽太はのんびりと笑う。

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