夕暮鳥居のその向こう｜リアクション

夕暮鳥居のその向こう

　仁科宝良は青の眼を歪める。鋭く、舌打ちする。
(なんだって俺ぁこんなとこにいんだ)
　気付けば目の前に鳥居があった。妙な面を着けた男が立っていた。
(今日はまた一段と妙なことが起こりやがる……)
　怒りに近く、思う。
「ほれ」
「あ？　んだってそんなもん着けなきゃならねえんだよ」
　妙な爺の面を着けた着物姿の男が、袂から面を出して差し出す。男の背後から、大勢のなにかのざわめきと人工の光が溢れている。
「祭でもやってんのか？」
　男の差し出す面は受け取らず、視線だけを向ける。
　この辺りで祭をやると聞いた覚えはない。しかもこんな妙な場所を、宝良は知らない。
　それに、と光から眼を背ける。どちらにしろ祭に興味はない。
「俺は帰……」
　眼を逸らした光の中、見失った後ろ姿を見た、気がした。
「……今の奴」
(いや、んなわけねえ)
　生じた思いを掻き消したくて舌打ちする。
(あいつがいるはずねえんだ。第一、後ろ姿じゃねえか)
　返しかけた踵が意思に反して止まる。振り返れば、翁面の男は差し出していた面を再び袂に戻そうとしている。
「おい、この先に行くにゃ面がいんだろ？」
　行くのか、と悠長に首を傾げる男に、宝良は手を差し出す。
「面、一つよこせ」
　男の掛けている翁面とよく似た面を奪うように受け取る。茶の髪の後できつく紐を結わえながら鳥居を潜る。
　爺面の男の注意事項を聞き流し、誰も彼もが面を着けて歩く、怪しげな集まりに足を踏み入れる。
(あまりいい気のする場所じゃねえが)
　鳥居から見えた後ろ姿は、どうあっても確かめたい。
(あいつなわけねえが)
　面を掛けた人々で賑わう石畳の参道を足早に歩く。
(あいつはどこに……)
　人込みに視線を走らせる。
(いた……！)
　あの後ろ姿。あの髪。歩くときの仕種や立ち止まるときのふとした癖。
「おい、あんた……」
　朝顔の鉢が並ぶ露店の前、追い続けてきた後ろ姿を呼び止める。振り返ったその人は、
「……そりゃ、面着けてるか」
　どこか子供っぽい面を着けていた。顔を確かめることは出来ない。あの怪しい男の言葉を信じるのなら、折角会えたというのにすぐに引き裂かれることは避けたい。
　それに。顔なんか見えなくても分かる。見えなくとも構わない。差し向かえば、疑念は確信に変わる。
「お前、なんだろ？」
　間違えるはずがなかった。
　問えば、その人は喪ったときと変わらぬ仕種で、
「うん」
　頷いた。
　間近に立つその人に、触れたくてけれど触れられぬまま、
「……変わらねえな」
　ほんの僅か、笑ってみる。　
「そういう宝良は、歳とったね」
　あの頃と変わらぬ声で、その人は笑った。
　その人が変わらぬことに安堵して、同じ程、寂しさに打ちのめされる。己は彼女が言う通り、歳を取った。それだけの年月を、今目前に立つ愛しい人無しで過ごしてきた。
「お前がいなくなって何年経つかってんだ」
　あの頃と同じように、少し拗ねた振りをしてみる。
　あの頃と同じように、そっぽを向こうとして、その人が面の奥に隠した優しい眼差しから眼を逸らせずに終わる。
「塞ぎ込んだりしてなくて、残念」
　くすり、彼女は笑った。笑い方も、ちらりとすくめる肩も、全てがその人で。その人のままで。
「……なんてね。安心した」
　まるきり姉の仕種で、顔を覗き込んで来る。
　その手を取りたかった。抱き締めたかった。
　伸ばしたくなる手を拳にする。堪える。背筋を伸ばして、笑う。
　己と彼女を隔てる、目の前にしてさえ埋められぬ淵を思う。越えてしまうことを、この人はきっと望まない。
「わかってる」
　出来うる限り、背筋を伸ばす。
「安心しろよ。お前のことは忘れねえが、前は向く」
　あの時は伝えられなかった言葉を伝え、別れ難い人に己から背中を向ける。ひらひらと、なるべく軽く見えるように手を振ってみせる。
「じゃあな、香葉」