夕暮鳥居のその向こう｜リアクション

夕暮鳥居のその向こう

　茜の空に、月は見えない。
　空を仰いだ兎の面の顔を伏せ、宇佐美実は気を取り直したように石畳の道を歩き出す。
　どこからともなく寝子島に流れ着いて、その日暮らしの根無し草、奇妙な人々のそぞろ歩く祭の景色にも動じる気配は無い。
(祭かぁ、いいねぇ)
　ちょっくらよってみるか、とばかり、寝癖のついた灰色の髪を片手で掻く。五色綿菓子が湧き出る綿飴機を覗き込み、普通の金魚と人面魚が仲良く泳ぐ金魚すくいを眺める。様々の面を掛けた人々が行き交う黄昏色の石畳の参道を、どこに向かうでもなくあちらにふらりこちらにふらり――
　賑やかな人波のその中の、たった一人。
　おかめにひょっとこ般若にひよこ、浴衣に甚平。様々な面、様々な格好をした人々の波の内に、真っ白な兎の面を被った少女を見つけて、
「え……」
　実は一瞬立ち尽くす。
　白兎の紅い瞳を夕日に煌かせ、白いワンピースを纏った少女は誰かを追うように石畳の道を軽やかに駆けて行く。
　行ってしまう。
「あ、待ってくれ！」
　白兎の面に隠れて、顔は見えない。見えないけれど、でも。
　少女を追い、人と人の間を擦り抜け、走る。たった一人の少女の小さな背中を、見失うまいと眼を凝らす。
(間違いない)
　否、間違えるわけがない。
　露店の重なる天幕の下を駆け抜け、連なる紅い鳥居が空を覆う階段を登る。石燈籠の光が白い光を落とす、人気の無い千本鳥居の階の半ば、
「瑞月！」
　美しい月を意味する己が娘の名を呼ぶ。必死に手を伸ばし、振り向く少女の華奢な手を取る。
「お父さん」
　亡くした娘が己を呼んでくれる。跪く。両腕いっぱいに娘を抱き締める。
　もう一度会いたいと願った。もう一度あの笑顔が見たいと祈った。何度も何度も何度も。
「もう、苦しいよお父さん」
　あの頃と同じ声で、同じ仕種で、娘の柔らかな腕が背中に回る。ぱたぱたと小さな掌が背中を叩く。
　あの時、最期に抱き締めた時の病みやつれた細さでないことに安堵する。娘はもう、苦しんではいない。
(くそ、伝えたい事が山ほどあったはずなのに)
　目の前に居るのに、思い出せない。
　言葉の代わりに涙が溢れる。頬を伝い、娘の肩を濡らす。娘の存在を確かめて、きつく抱き締めたまま何度も頭を撫でる。娘が生きていた頃にしていたように、何度も。
(夢なら覚めないでくれ)
　息を吐いて、気付く。いつの間にか、娘の傍ら、娘と同じ兎面を掛けた長い髪の女性が寄り添うている。
　確かめずとも、分かる。
「そうか、会えたのか、よかった」
　娘を生むと引きかえに彼岸へ発った妻に、手を伸ばす。己が涙で濡れた娘の肩に触れる妻の手を、掴む。妻の優しい手に頬を寄せる。
「……俺」
　俺もそっちへ、と。
　二人の傍に行きたい、と。
　そう口にするよりも先、娘の掌が頬に触れる。
「約束」
　妻と娘の掌に片頬ずつを挟まれ、声を揃えて優しい声で叱られ、また涙が溢れる。
　二人の居ない世界は寂しかった。苦しかった。命を失ってでも、二人の傍に居たかった。でも、そうだ。
　自分の幸せを考えて、と妻は言った。
　一人ぼっちにならないで、と娘は言った。　
　死の淵に立ってさえ、二人は残される側の心配をしてくれた。幸せを願ってくれた。
(約束したもんな)
　大切なものを失うのが何よりも怖くて、だから大切なものを持たないようにしてきた。けれど。
　二人の手を取り、立ち上がる。
「……瑞月を頼む」
　面の下に涙を隠して、涙声で二人に応える。
「俺は、もう少し……ここで、頑張ってみるよ」

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