夕暮鳥居のその向こう｜リアクション

夕暮鳥居のその向こう

　黄昏の風を集めて、弘明寺能美子の長い黒髪が広がる。
「……ふうん」
　翁面の男から面を渡され、能美子はどこか不機嫌そうな黒の瞳を僅かに歪める。頬に浮いた金色のそばかすが同じように歪む。
　鳥居の前に黙して立つ翁面の男から顔を逸らし、鳥居の向こうを覗き込めば、広がるは縁日に賑わう神社の境内。
　浴衣を纏った子供達が、それぞれにお面を被って屋台が軒を連ねる参道を楽しげに駆けて行く。そう言えば、子供の頃にこういう神社や鳥居や縁日なんてものに触れたことはなかった。
(けど、ちょっとお面とかつけて面白そうね)
　顔を隠して面を掛ける。結い紐に緩く絡んだ黒髪を片手で手で軽く束ねて背中に流して、
　不意に背後から焚かれたフラッシュと昔よく聞いていたカメラのシャッター音に能美子は振り返る。
「ちょっと、やめてよ」
「あっ、ごめんごめん」
　能美子の威嚇にも似た強い言葉に、諸星譲は明るく詫びる。
「あんまりいい絵だったもんだから」
　借り受けた正義の味方の仮面ニャンダーの面を片手首にぶら下げ、構えていたカメラのファインダーから目を外して、譲は人懐っこく笑う。
「縁日やってんのかな？　夏らしくていいなぁ」
　階段を登って能美子の隣に立つ。あからさまに身を引く能美子を気にした風でもなく、鳥居の向こうを興味深げに覗きこむ。
「お面渡されたけどなんでだろ？」
「さあ」
「島に新しく出来たアトラクションかな？」　
「知らないわ」
　面の奥の目を合わせようともせずに低く答える能美子の隣、譲はとりあえず面を被る。躊躇いもせずに鳥居を潜り、好奇心に満ちた視線を境内に巡らせる。
「それにどこか懐かしい感じ」
「……ふうん」
　言葉少なに、それでも一応返事をして、能美子は黒髪を揺らして歩き出す。
「こういうのが懐かしい風景、っていうのね」
「お、あれ美味そうだな」
　軽い足取りで先へ先へと進んでいく仮面ニャンダーの男を何となく追うかたちで鳥居を潜ろうとして、
「さっきの兄ちゃんに写真機では何も撮れんて伝えてくれんか」
　思い出したように翁面の男に言付けられた。
「現像しても真っ暗になっとるだけやて」
「……会えば伝えるわ」
　人込みに紛れ、仮面ニャンダーの男の背中はもう見えない。
　黄昏時の冷え始めた風に惑わさせるように、石畳の参道を進む。遠く、風鈴の音。近く、賑やかな屋台の呼び込み。
　傍らを擦り抜けて行く小さな子供達を何気ない動作で避けて、ふと、首筋の辺りを掠めて過ぎた香水のかおりに胸が跳ねた。
　面に隠した視線で香りを追う。今擦れ違ったばかりの男性の背中に行き着く。体ごと振り返って、昔近所にあった花の匂いを嗅ぐ。
(あの人の、匂い)
　考える間も惜しんで、石畳を蹴る。懐かしい匂いのした懐かしいあの人の背中を必死に追いかける。
　人波に紛れていく背中、触れられずに遠ざかる背中、あの日どうしようもなく傷つけた背中、望まぬ罪をひとりで負うた背中、
「まって、」
　掠れた声で叫ぶ。
　振り返ったその人は、道化師の面を被っていた。
　必死の思いで追いついたその人の広い背中に、能美子は手を伸ばす。あの頃によくそうしていたように服の裾を掴もうとして、指先が強張る。
　小さく震える指先を訳も分からずもう片方の手で掴む。道化師の面の頭を悲しげに横に振って立ち去ろうとするその人に、声を振り絞る。
「まって、あの日、あんなことがあったけど、私はそれでも『お兄さん』と兄……」
　言葉にしようとした声が詰まる。
「……え？」
　目前に静かに立つその人を見仰ぐ。顔は見えない。見えないけれど、身に纏う香りは間違いなくあの人だ。顔が見えないだけであの人と別の人を間違えるはずがない。でも。けれど。
(なんでお兄さんの方がここにいるのよ)
　めまぐるしく思考を巡らせる。そうして、『此処』がどういう場所であるのかをなんとなく理解する。
　目の前に立つのは、だから間違いなく『お兄さん』だ。
　指先だけでなく体全てが震える。己が身を己が腕で抱きしめ、震えを止めようとしながら、能美子は懸命にその人を見つめる。
　眼を逸らしてはならない、そう思った。
　能美子に見つめられ、道化師の面の奥、その人は小さく小さく、悲しい息を吐く。暫く迷う仕種を見せて、ゆっくりと腕を能美子へと伸ばす。どこか恐る恐る、能美子の黒髪の頭に触れようとして、止める。首を横に振る。
「ごめんなさい、私達『きょうだい』のせいで」
　あの頃のように触れてはもらえず、能美子は力なく呟く。
　詫びる以外に、今はもう何も出来ない。

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夕暮鳥居のその向こう

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