夕暮鳥居のその向こう｜リアクション

夕暮鳥居のその向こう

「ありがとう、おきな仮面さん！」
　恵御納夏朝は小柄な体を折って丁寧なお辞儀をする。緩く波打つ髪からずり落ちそうになる黒猫のお面を押さえる。借り物とは言え、グッズを集めるほど大好きな猫のお面を被ることが出来たのはすごく嬉しかった。
「おきな仮面、なぁ」
「行ってきます」
「ああ、行って来い」
　何故だか釈然としない様子のおきな仮面に手を振る。お面が落ちないように結い紐を締め直して、鳥居を潜る。
　石灯篭の炎の光と、屋台に掛けられた電球の白い光と、沈みかけの太陽の赤い光が入り混じる、ひとの声で溢れる参道を辿る。
　お好み焼きに焼きそば、焼き鳥にクレープ、綿菓子、
(あ、たこ焼き売ってる)
　香ばしく焼けるたこ焼きのいい匂いにつられ、屋台にふらり、並ぶ。竹皮の舟に並んで鰹節を揺らめかせる熱々まん丸のたこ焼きを、お面を少しだけ持ち上げて頬張る。口いっぱいに広がる熱さとソースの甘みと出汁の旨みに、面の内の茶色の眼がほんの僅か細くなる。
　たこ焼きを頬張りながら、怪しげな屋台にも近付く。檻に入れられた人面犬、不気味な呻き声を鉢の中の根っこから上げる毒々しい葉っぱの植物、フツウの金魚に混じって跳ねるおっさん顔の人面魚。
(……連れて帰れないし)
　怪しい屋台と怪しい商品はちら見するだけに留めておく。
(それにしても)
　思い出すのは、おきな仮面の言葉。
(亡くした人と会えるかも、か)
　とは言え、身近な人は誰も死んでいないはず。
(お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、)
　みんな、生きている。
　それは間違いない。それなのに、
(……何で、こんなに不安になるんだろう)
　胸の中で何かがざわざわ蠢く気配がする。
　忘れちゃいけないものを忘れている気がする。
　寂しいような痛いような感覚に胸が締め付けられる。こんな感覚は知らない。
　知らず、視線が惑う。
　惑うた視線の先、浴衣に犬の面の女性が見えた。女性が慈しむように抱く、薄青のおくるみに包まれた小さな小さな赤ん坊が、見えた。女性が赤ん坊の名前を囁いて笑う。響きからして、たぶん、男の子の名前。
　瞬間、膨れ上がった不安に肺を押し潰され、夏朝は面の内で喘ぐ。息が詰まる。目眩にも似て、視界が赤黒く染まる。
「違う、」
　呻きながら、思わず蹲る。面の上から両手で顔を押さえる。
(……違う、彼らは僕とは関係ない！)
　湧き上がる何かを押さえつけて、両腕で自分を抱きしめる。不安に震える体を押さえつける。
(あの赤ちゃんは違う、違うはずなんだ)
　頭の中で繰り返し繰り返し、己に言い聞かせる。
(違う、)
　そうして、気付く。
　――『誰と』、違う？
　――何で、違う……？
　ぼんやりと、瞬く。　　
　冷たく強張った指先が、顔に掛けた猫の面に触れる。
　そうだ、ここはお祭の最中で。
　僕はお祭を楽しみに来た高校生で。
　顔には猫のお面。誰も、僕の顔を見ることはできない。
　かり、と指先が猫の面を引っ掻く。その音に我に返る。立ち上がる。
(……屋台、見て回ろう)
　何事もなかったかのように、周りの屋台を見回す。
(折角の機会、……楽しまなきゃ)
　自分自身に言い聞かせる。
　役を演ずるかのように、のんびりぼんやりいつものように歩き出そうとして、立ち止まる。
　ポケットに入れて持ち歩いている猫手帳を取り出す。猫の頭がついたペンで、
『赤ちゃん関連の何かを忘れている』
　そう、書き込む。　
　記しておけば、そのうち何かを思い出す切欠になるかもしれない。
「……うん、よし」
　小さく頷いて、手帳をポケットに仕舞う。
　今は、このお祭りを楽しもう。今は、まだ。