夕暮鳥居のその向こう｜リアクション

夕暮鳥居のその向こう

　祭の熱と人の波に圧されて流され、エリューシア・セリアンは銀色の睫毛を瞬かせる。
　黄昏の風景に、迷い込む。
　長い銀髪が肩から滑り落ちるのが兎の面で覆った狭い視界に見えた。視界が暗く狭いのは、時々起こす貧血の感覚に少し似ている気がする。
　祭の賑わいを潮騒のように聞きながら、鮮やかなヨーヨーの色合いにふらり、惹かれた。ヨーヨーつりの水槽の端にちょこんとしゃがみこむ。屋台の主から鈎付きのこよりを受け取り、ヨーヨーつりに挑戦する。　
　水にゆらゆらと浮くゴム風船の輪ゴムに鉤を引っ掛けて、引っ張り上げる。水に触れた紙こよりがあっけなく切れて、
「取ってあげようか？」
　小さな息を吐くと同時、背後から聞こえた声に、とくん、胸が鳴った。
　柔らかな声音に聞き覚えがあった。
　記憶の底に宝物として封じていた、その声。聞き間違えるはずのない声に、弾かれるように振り返る。
　あの頃。
　十歳の頃に仰いだ時よりも近く、彼の顔があった。その顔はもちろん面で覆われて見えなかったけれど、あの人がこんなところにいるはずないと知っていたけれど、――けれど。
　名を呼べば、答えてくれるだろうか。
「淳也」
　十歳の頃に恋した、日本の男子高校生の名を唇にのぼらせる。オーストリアの家にホームステイにやってきた、優しい男の子。
　日本語が上手だと褒めてくれた。
　綺麗な花火の写真を何枚も見せてくれた。
　どこへ行くにもついていこうとしても、笑って受け入れてくれた。
『シアが日本に来たら、一緒に花火をしようか』
　帰国の際、空港で交わした約束。
　もう二度と叶うことのない約束。
　幼い頃に恋したその人は、日本の空港から自宅へ帰る道の途中で自動車事故に巻き込まれてしまった。飛行機でも辿り着けない遠くへ、逝ってしまった。
「淳也……？」
　もう一度、問う。
　否定はない。面の下に覗く口元に浮かぶ優しい笑みを答えとして、エリューシアは立ち上がる。
　十歳の頃にしていたように服の裾を掴もうとして、戸惑う。
　目の前の彼は、別れた時と同じ高校生の姿をしている。今の自分自身と同じ年恰好のままの彼と並ぶ。縮まるはずのない歳の差が縮んでいるありえない出来事に、だからこれはきっと特別な時間なのだろうとエリューシアは思う。信じる。
　夢でも、良かった。
「シア」
　涼しげな音を立てて、目の前で水色のヨーヨーが跳ねる。事も無げにヨーヨーをひとつ釣り上げ、彼は笑った。
　差し出されるヨーヨーを受け取れば、もう片手を彼の大きな手に掴まれた。
「約束を果たそう」
「約束」
「忘れちゃった？」
　先に歩き出しながら肩越しに振り返る彼に、首を横に振る。銀の髪がふわり、広がる。
「忘れるわけ、ない……！」
　手を繋いだまま、露店で花火を買い求める。賑やかな参道の屋台群から少し離れて、黄昏色の雑木林の脇道に入る。
　降りしきるひぐらしの声の下、玉砂利の上で花火に火をつける。華やかに爆ぜて散る火花を、二人で静かに静かに見守る。
　花火は綺麗なのに、大好きだった人が傍らに居てくれているのに。色鮮やかに咲く炎の花も、隣にしゃがむ彼の姿も、涙で滲んでよく見えない。
「大きくなったね、シア」
　あの頃と全く変わらない、変わることの出来ない声で、彼が静かに笑う。
「約束を果たすのが遅くなって、ごめんね」
　答えたいのに、涙が溢れて声にならない。面で顔を隠したまま、ハンカチで涙を拭う。止まらぬ涙に途方に暮れる。
　言葉にするその代わり、面をずらす。お互いの目元を隠して、エリューシアはそっと彼の頬に涙で冷たくなった唇を触れさせる。
　叶わぬままに終わった恋心は、儚く散って消える火の花と一緒に、消えてゆく陽の光と一緒に此処に置いて、――帰ろう。