『跪いて、崇めよ』｜リアクション

『跪いて、崇めよ』

【春】

　――どの靴が似合うかしら？
　――あんたの足はそんなもんなくても、十分綺麗だ。
　――私の足、綺麗？　そう。じゃあ、いらないね。

　カラン、と甲高い音を立ててハイヒールが転げ落ちる。楢木春彦は落下物には一瞥もくれず、彼女の足元に跪いた。
　春彦は柄にもなく漆黒のスーツに身を包んでおり、それでも釦はきっちりと閉めず程よく寛げている。
　襟から覗く白い首筋が艶めかしい。鎖骨の微かな影に彼の欲望が映り込む。
　しかし春彦はあくまでも恭しく、たわやかに彼女の脛に口付けを授けた。

　唇で脚線美をなぞる間、左手はふくらはぎに添えてズボンをめくり上げ、右手は靴下を脱がせながら足首を、爪先を愛でていく。
　視線はまっすぐ無心に足へと向けて、春彦は全身で彼女のおみ足に敬意を払った。
　脛は砂糖菓子のように甘く、ふくらはぎはマシュマロのように柔らかい。足首は飴細工のようにか細く、爪は水飴のように艷やかだった。
　体温で溶け、甘い香りが膨らんでいく。香りは唇から鼻へと抜けて下腹部までくすぐるが、春彦は涼しい表情を貼り付けたまま粛々と愛撫を続ける。
　ズボンの裾まで唇が辿り着くと、それ以上無理に素肌を犯さず、静々とズボン越しに足を上へと辿っていく。
　春彦の濡れた吐息が、彼女のズボンに黒い染みを作る。
　それさえ彼女は甘受する。しかし春彦の唇が太腿の際に辿り着いた辺りで、か細い五指が春彦の額に押し当てられた。
　春彦は顔を上げて、希う。無機質な眼差しが彼の視線を押し返す。
　見つめ合ってせめぎ合って。次第に二人の距離は縮まり、どちらからともなく噛み付くように――

「へっくし……！」

　くしゃみをした拍子に、自ずと春彦は下を向いた。
　視界の大部分を占めるのは、しなやかな筋肉がついた己の足。

「……ハァ。コレが現実だよな」

　一度現実を認識すると、無限に広がる妄想も瞬く間に萎れてしまう。
　春彦はもう一つ重たい溜め息を零して、自身の足を軽く撫でた。
　確認するまでもなく、春彦の足は逞しい。
　鍛え抜いた自慢の足だが、夢想する女性のツルツルすべすべの足とはまるで違う。形も手触りも香りも。
　何より春彦はこの足に跪いて、キスをするなんて御免だと思った。

「……ハァ」

　一度溢れると、溜め息というものは止めどなく溢れてくる。
　気持ちを切り替えるべく、春彦は『こんな妄想をしてしまった原因』に目をやった。
　挑戦的な表情を浮かべた、二人の男性。その足には艶やかなハイヒールが輝いている。
　この怪しい輝きを見て、つい妄想が膨らんだ。それも以前一度見かけただけの女性の妄想が。

（足が綺麗っつったら、ついあの子を思い浮かべたけど……。
　太腿は柔らかそうで、そこからふくらはぎにかけてのラインとかすげぇイイよなーとか考えてたら、
　いつの間にかどんどん妄想が膨らんでいって……）

　行き過ぎた妄想が作り出した女性はもはや彼女とは違う。
　甘いだの柔らかいだの、あれは春彦の願望や想像のつぎはぎ人形でまったく彼女の輪郭が見えてこない。

（くそ……虚しい……）

　ずっしりと重たい疲労感が春彦の両肩に伸し掛かる。
　一度妄想をすべて洗い流して、装飾を捨て去った彼女を思い返してみれば彼女の態度はけっして社交的とは言えなかった。甘い言葉の一つもくれはしなかった。
　けれど今でも思い出すたびに、甘い疼きが胸を走るのだ。
　時間が経つにつれて、疼痛は和らぐどころかますます強く鋭く転じた。
　その痛みが行き過ぎた妄想を生み、虚無感を生んだ。

「そもそもこの広告がすげぇから……！」

　不貞腐れて広告を睨みつけるが、そうしたところで胸の穴は埋まらない。

「……またどっかで会えたらイイな……」

　溜め息と共に吐き出された春彦の呟きは、誰の耳に届くこともなく部屋の静寂に溶け込んでいった。