ひまわり畑でさよならを｜リアクション

ひまわり畑でさよならを

◆ただ一つの願い◆

　甘くて優しいパンケーキの香り。
　大好きな母が、焼いているのだ。
　母のスカートの裾を握ったまま離さない、宮祀智瑜は８歳の女の子。母の後を、とてとて付いて回る、いとけない我が子に、母は柔らかな微笑を向ける。眩しそうに見上げて、智瑜はもじもじとはにかんだ。

　かけがえのない毎日。
　何より、母と一緒に居られるのが嬉しくて。
　温もりを確かめるように、智瑜は母の体に身を寄せた。
「あらあら、智瑜は甘えん坊さんね」
　女らしいふっくらした指が撫でてくれる時の、心地良さときたら。

　だけど時々、頭を過ぎる。
　白い大きな犬の影。
　あのわんちゃんは、どうしたのだっけ……？
　無事におうちに帰れたのかな？
　両サイドの細いリボンを揺らして、智瑜は細い首を傾けた。

「さあ出来たわ、たっぷり蜂蜜をつけて食べましょうね」
「わあ！　嬉しい。ねえ、お母さん。お昼を食べたら、また本を読んで」
「ええ、いいわよ。智瑜は、本当にあの本が好きなのね」
　母は笑うが、ちょっと違う。お母さんが読んでくれるから、好きなのだ。
　牛乳瓶を傾け、母が智瑜のために透明なグラスを満たしてくれる。
　それだけの事に、胸が躍る。

　そうだ！　自分で読めるところを読んで、お母さんに誉めて貰っちゃおう。
　そうして「智瑜はいい子ね」って、また誉めて貰うんだ。
　にこにこと頬張ったパンケーキは、蕩ける様に甘かった。

　期待を胸に、智瑜は素敵な計画を実行に移した。
「昨日習ったの」
　得意気に華奢な両腕を伸ばして、色彩鮮やかな本を広げようと、表紙を捲る。

　あれ？

　智瑜は本に書かれた、名前を見直した。

　私の、名前じゃない……？

　本だけじゃない、ランドセルにも。
　小物の一つ一つにだって、智瑜の知らない女の子の名前が、丁寧な字で記してあった。

　――私……そうだ、私は『お母さん』の本物の子供じゃない。

　優しい、優しいお母さん。
　私の為に、色々してくれて……何より生きて、私の傍で笑ってくれる。
　早世した本当の母も、与えたかったに違いない掛け値の無い愛を、彼女は智瑜に惜しみなく注いでくれた。

　お母さん。
　私は『お母さん』に、何をしてあげられる？

「お母さんは、何したい？」
　智瑜は問い掛けた、母に願いを。

　【想い見る】
　無自覚のうちに宿った神の力の欠片が、母の願いの輪郭をなぞる。

　智瑜が垣間見たのは、この夢に酷似する光景。
　愛しい娘が傍に居て、幸せに暮らす。
　遠い遠い、昔の記憶。

「……お母さん、これ」
　ある日、智瑜が母に手渡したのは、庭に咲くひまわりの絵。
「まあ、上手！　さすが私の娘だわ」
　無邪気に喜ぶ母の足元に、智瑜はしがみついた。
「智瑜？　一体どうしたの」
　涙が堰を切って溢れてくる。

　さよならは言えなかった。

　……だって私も、傍に居たいって思うから。

　夜のひまわり畑で、智瑜は目を覚ました。
　起したのは、白い犬を連れた少年。
　頬を伝う涙を拭う智瑜の手に、彼は黙ってハンカチを押し付けた。