ひまわり畑でさよならを｜リアクション

ひまわり畑でさよならを

◆巡る記憶◆

　長い黒髪が揺れて、１０歳の女の子・恵御納夏朝の頬をくすぐった。
　転寝した夏朝を、母がうちわで扇いでくれていたのだ。
　体にはいつの間にか、タオルケットが掛けられている。
　さっぱりした感触を肌で確かめて、夏朝はあどけない唇に微笑を浮かべた。

「あら、起きたの夏朝？」
　母の優しい声が、なんだかくすぐったい。

「あれ……お庭、ひまわり？」
　ふと目に入った、庭の緑を夏朝は指差す。
「ええ、そうよ。よく分かったわね」
　母の手が、夏朝の髪を撫でる。
「学校でも、育てた事あるから。縞々の、大きな種」
「そうだったわね。このひまわり、ついこないだ植えたばかりだと思ったけど、すっかり茎が太くなって。もう夏朝より、ずっと背が高いわね」
「花、もうすぐだね」
　青空一面に咲き誇るひまわりを、夏朝は思い描いた。
「楽しみね。種が採れたら、何個あるか数えてみましょうか」
「うん」
「約束ね」
　母が差し出した小指に、夏朝は華奢な小指を絡めた。

　穏やかに日は巡る。
　庭のひまわりは、ついに黄色い花弁を開き始めた。
「ひまわり、あとちょっとだね」
　母と一緒に食卓を囲む、夜。
　小さな口にオムライスを頬張れば、母がついたケチャップを拭ってくれる。
「あのね、お母さん。今日、面白い事があってね……」
　とりとめのない話を、母は本当に楽しそうに聞いてくれた。
　だから夏朝も、楽しくて。
　何より母が笑ってくれるのが、嬉しくて。

「ねえ、僕にも、お母さんの話聞かせて？」
「そうねえ。母さん今日、夏朝が探していた、猫の親子を見かけたのよ。どうなっていたか知りたい？」
「知りたい！」
　楽しい夜は更けていく。

　ある日。夏朝は、母が書き物をしているのを見掛けた。

　あれ？　お母さん、大丈夫なのかな……？

　拭えない違和感に、夏朝は疑問を母にぶつけた。

「お母さん、辞書……漢字辞書は使わないの？」
「大人は皆、漢字が書けるのよ」
「……え、でも……」

　拭えない違和感が顕著となり、夏朝は表情を曇らせた。

「大丈夫よ。夏朝も大人になったら、書ける様になるわ」
　母は優しい、でも、違う。

　お母さんは、僕の本当のお母さんは……

　え……この記憶は、何？

　病室のベッドの上で、すっかり衰弱した『お母さん』が泣いている。
　泣きながら、ひたすら謝罪の言葉を口にする。

　その度、長くて柔らかな金の巻き毛が揺れた。
　大粒の涙を零す、澄んだ蒼い眼。白い肌。少女と見紛う程、若く見える。

　お母さん、どうして泣いているの？
　……泣かせてしまったのは、僕？

　フラッシュバックする光景は、夏朝の意志とは無関係に、一方的にそれを見せ付けるだけで。
　答えはちっとも、見つからなくて。

　夏朝は決断した。

「お母さん」
　母の背中に、夏朝は告げる。
　その髪は、もう黒くなかった。

「ごめんなさい……僕は、元いた世界に帰ります」
「夏朝？　あ、分かったわよ、かぐや姫のお話ね？」
　胸は痛むが。

　お父さんと、お母さんのいる世界に、帰らないといけないから……。

「本当に、ごめんね……『この世界の』お母さん」
　寂しい別れの舞台の袖で、咲き始めたひまわりが揺れていた。