あなたを待っている｜リアクション

あなたを待っている

　時刻がきてロープウェイが滑るように発車した。人の少ない時間帯を狙ったのか。五十士柊斗の貸し切りとなった。斜め下に流れる景色を菫色の瞳がぼんやりと眺める。途中の駅から乗り込む人はなく、終点の展望台前駅に到着した。
「ここにくるのは初めてだ」
　柊斗は落ち着いた様子で駅を降りた。緩い風が金色の前髪を揺らす。羽織っていたサマーセーターの前のボタンを嵌めて、最後の上りに踏み出した。
　目的のない散歩を楽しむ風情で柊斗は歩いた。
　前方から賑やかな声が降ってきた。母親と思しき声が怒鳴るように注意する。
「登山客かな」
　歩く速度は変わらず、柊斗はぽつりと口にした。
　道なりに曲がると、はしゃぐ子供が目に留まった。丸っこい麦わら帽子を目深に被り、手には野草の束を握っていた。中の白い花が千切れんばかりに揺れた。
「山で足場が悪いんだから、そんなに走ったら危ないでしょ」
「スキップにしましたー。だから危なくないですー」
　子供は頬を膨らませて飛び跳ねる。両足を揃えて跳ぶことが多かった。
「スキップでもないような」
　危ない行為に変わりはない。子供の右足が丸い石を踏んだ瞬間、足元を真横から払われたかのように身体が急速に傾く。母親の悲鳴にも似た声は半ばで途切れた。
　柊斗の左腕が子供の倒れる身体をしっかりと支えていた。
「ボク、だいじょうぶかい？」
　子供はぽかんとした顔をしている。滑るように距離を詰めた柊斗の動きを理解できていない様子だった。
「危ないところを助けていただいて、ありがとうございました」
　笑顔の母親に詰め寄られた柊斗は、どうも、と答えて視線を逸らした。立ち止まっていた父親が丁寧に頭を下げる。
「ほら、あんたもお兄さんにお礼を言いなさい」
　母親に急かされた子供が不機嫌そうな顔で、ありがとう、と言った。何度も頭を下げる母親に手を引かれて右手の道を下っていく。
　柊斗は展望台を目指して左手の道に目を向けた。歩を進めようとした時、先程の子供がやってきた。
「これ、あげる」
　差し出した手には一輪の白い花が握られていた。柊斗は前屈みになって摘まんで受け取った。
「ボクじゃないから。わたしだから」
　早口の小さな声を最後に子供は両親の元へと駆け戻る。母親には走ったことで早々に注意を受けていた。
「俺の家族を見ているみたいだ」
　表情を和らげた柊斗は歩き始めた。

　待望の空と対面した。柊斗は顔を上げて両手を水平に広げた。全身に生まれたばかりの風を受ける。
「……風に、流れていく。空に、俺が溶けていく。心が空に――」
　風に舞う木の葉のように身体が動く。金色の髪が朝陽と交わって溶けていく。柊斗は望んで自然の一部となった。
　広げていた手を降ろした。改めて周囲の眺めに目を細める。
「素晴らしい景色だ。お気に入りの場所に加えよう」
　柊斗は下りの道に意識を向けた。ふと胸元に挿した白い花に目がいく。
「家族か」
　柊斗は取り出したケータイで気に入った景色を何枚も撮った。見比べて最高の一枚を選び出す。
「送信はあとでもいいか」
　ケータイを手の中に収めた柊斗は眠そうな目で来た道を下りていった。

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