Mon seul Tresor｜リアクション

Mon seul Tresor

　ポケットの中で震えたスマホを引っ張り出し、液晶に浮かんだ名前に礼二は端正な顔をほんの少しだけ嫌そうに歪めると、通話ボタンを押した。いつもよりも数段低いトーンは威圧感すらあったが、どうせ相手は意に介さないだろう。
　礼二は父親が嫌いだった。息子に嫌われていると知りながらも、余裕を崩さない父親の姿を見るたびに、心が波立った。心を乱す価値すらない存在だと言われているようで、苛立った。
　電話越しの父親の声が普段よりも暗い事に気づいた時、イタリアに住む母方の祖父が亡くなったと聞かされた。頭が一瞬だけ真っ白になり、自分の意思とは関係なく「まさか」という言葉が零れ落ちる。父親が冷静に祖父の死を肯定し、目の前が暗くなる。
　そう言えば、近頃心臓の調子があまり良くないと母伝で聞いていた。それなのに、日本で成果を出そうと躍起になっていた礼二は、イタリアに行く事はなかった。
　俺がお爺様のところに顔を出していれば……。
　両親は礼二よりも更に忙しい。礼二が両親の代わりに祖父を見舞いに行く余裕さえあれば、祖父の変調にも早く気がついただろうし、亡くならずに済んだかもしれない。
　仕事をより完璧に、出された条件以上の成果を出そうと躍起になった結果、礼二のスケジュールは余裕を失い、仕事に追われるようになった。
　足元が崩れるような感覚にふらつけば、廊下を歩いていた花厳望春とぶつかった。可哀想な事に姉の策略に嵌り、スカート登校をしていた望春はどこからどう見ても美少女だったが、礼二の目には映らなかった。か細い声で「すみません」と、謝罪をするのが精一杯だった。

『ねぇ、ノンノ。ボク、パーパより凄い？』
　祖父の膝に座り、幼い礼二はよくそんな事を聞いていた。
　母よりも父よりも信頼できる温かな存在。祖父は、礼二の世界の全てだった。

　祖父の顔が、声が、温もりが、脳裏を過ぎる。顔をあげれば空は曇天で、今にも泣き出しそうな暗い雲が広がっていた。
　冷たい墓前に手を伸ばし、触れる。何故父親がこんなにも嫌いなのかという理由を思い出し、礼二は自嘲気味に口元だけの笑いを浮かべた。
　自分よりも祖父に認められている父が面白くなかった。父よりももっと凄いと認めて欲しくて、それで絶対に父を越えようと心に決めた。でも父の背中は遠くて、どれだけ追いつこうと足掻いても、父は簡単に先へと進んでしまう。礼二の努力など無意味だと、嘲笑うかのように。
　乾いた笑いが漏れる。
　そう、どんなに頑張ったところで、父には追いつけない。知っているからこそ、反発する。……なんて子供っぽい感情なのだろう。いくら周囲から大人っぽく見えていても、結局のところ礼二はまだ15歳の子供で、両親の背中は遠くて ――。
　それでも、いつかは礼二も大人になる。いつかは両親の背中に追いつき、追い越す事が出来るはずだ。その時、一番に祖父に見せたかった。その時を、待っていて欲しかった。
「俺はまだ、あの人以上の姿を貴方に見せていないじゃないですか」
　呟いた言葉が、空から落ちて来た雨に混じって地面に落ちる。降り出した雨は白く、冷たい雨粒が礼二の黒いスーツを濡らす。傘は持っていたが、差さない。いや、差したくない。濡れたいからではなく、誤魔化したいから。
　温かい雨が頬を伝う。目から溢れた雫は細い顎を伝い、祖父の墓石に落ちた。

　ポケットの中で震えたスマホに、礼二は顔をあげると目元を手で拭った。ディスプレイには『nonno』と浮かび上がっており、緊張した面持ちで耳に当てた。聞こえてきたのは懐かしく心地良い声で、ほっと安堵の息を吐く。
「……丁度、お声が聞きたいと思っていました」
　自然と表情が綻び、声が柔らかくなる。
「近々伺っても良いですか？　……久々に、ノンノに甘えたくなりました」