Mon seul Tresor｜リアクション

Mon seul Tresor

　ベランダから落ちたオルゴールは、鈍い音を立ててコンクリートの上で跳ね、中の仕掛けが零れ落ちた。
　そのオルゴールがアリーセの元へとやって来たのは、５歳くらいの時だった。何か特別な日と言うわけではなかったのに、両親は買い物から帰ってくると綺麗にラッピングされた箱を差し出した。赤いリボンを解き、カラフルな包み紙を丁寧に開ける。中に入っていたのは四角いオルゴールで、アリーセはネジを巻くと蓋を開けた。
　優しい曲と共に、小さな白い花を持った青い瞳の男の子がユラユラと揺れる。特に突飛な動きをする訳ではなく、ただ揺れているだけだったのに、アリーセは飽きずにずっと見ていた。曲が終わればもう一度ネジをいっぱいまで巻き、何度も繰り返し聞いた。
　アリーセは外へ出ると、落ちた男の子を拾い上げた。突然の強風に、胸元の菫色のリボンが揺れる。サイドテールにした黒髪を手で押さえ、アリーセは立ち上がった。
　お母さんから貰った青い目は大好きだったけれど、周りと違う見た目に悩んでいたのも確かだった。周りの子はみんな茶色い瞳で、集合写真を見ると自分の瞳の色にばかり目がいった。でも、このオルゴールを貰ってから、そこまで青い目が気にならなくなった。同じ青い目をした男の子が、いつか自分に花を捧げてくれるんじゃないか、そんな幼稚な妄想によく耽っていた。今思えば、少し……いや、大分内気な性格だった。
　壊れたオルゴールの破片を手に、懐かしい旋律を思い出す。
　男の子の持つ白い花と同じ名前の曲。初めて、自分で覚えたいと思った歌だった。母親に歌詞を教えてと頼み込んだ時、ドイツ語の歌詞しか知らないと、随分と困った顔をしていたのを覚えている。帰宅した父親に聞いても、子供の頃に歌った事は覚えていても、歌詞自体は覚えてないと言われて落胆した。
　それでもどうしても知りたかったアリーセは、苦手だった幼稚園の先生に勇気を出して聞いてみた。アリーセの質問に、先生は嬉しそうに、丁寧に教えてくれた。淡い水色の紙に書かれた平仮名の歌詞カードの四隅には、先生が描いてくれた白い花があったのを覚えている。
　先生のピアノに合わせて、歌を歌った。歌詞を忘れて詰まっても、間違った歌詞を歌っても、音程を外しても、先生は笑顔でまた最初から付き合ってくれた。間違えずに歌えた時は、満面の笑みで上手い上手いと褒め、頭を撫でてくれた。子供っぽい、お遊戯のような歌だった。上手いはずはなかったのに、先生に褒められると本当に上手く歌えているような気になった。
　歌が好きになったのは、必然だった。青い瞳の男の子は、花の代わりにアリーセに歌をプレゼントしてくれた。
　思い出の詰まった、大切なオルゴールだったのに、何故外で聞きたいなんて思ってしまったんだろう。バラバラに砕けたオルゴールは、アリーセの夢を表しているかのようで、心の奥が締め付けられる。
　一度失われたものは、元には戻らない。後悔したって遅いという事は分かっていたけれども、それでも失われたものの大きさに、言葉では言い表せない哀しみが胸に広がって行く。

「顔色が優れないようですが、大丈夫ですか？」
　落ち着いた声に、アリーセは顔をあげた。加瀬礼二の心配そうな青い目が、オルゴールの男の子の目と重なった瞬間、アリーセは詰めていた息を吐き出して胸元に手を当てた。心臓が強く脈打っているのを掌に感じながら、先ほどまでの世界が夢だったと実感する。
　アリーセの記憶が正しければ、あのオルゴールは仕掛け自体はもう動かないものの、曲はまだ鳴るはずだ。
「大丈夫よ、ありがとう」
　アリーセは小さく微笑みながらお礼を言うと、礼二の脇を通り過ぎた。家に帰ったら、久しぶりにオルゴールのネジを巻いてみよう。あの男の子はもう動かないけれども、アリーセにとって特別な事に変わりはないのだから。