◆
　閉門時間を過ぎて、生徒たちがいなくなった校舎に寂しそうに影が落ちていた。
　しかし職員室の明かりはついたままだった。特別課題の採点をするため関係科目の教師たちは残業中なのである。
　桐島 義弘はメガネのブリッジを上げた。
「こちらは全員確認終了した」
　さすがに疲れたのか、義弘は小さく息をついた。
「おつかれさまね、桐島センセ」
　無防備になっているタイミング見計らって、富士山 権蔵はふぅと義弘の耳に息を吹きかける。
「……やめろ」
　フジコの過剰なスキンシップは日常茶飯事だったが、いつまで経っても義弘は慣れなかった。
「あら、怖い。ま、それはそうとして、皆なかなか頑張ってたわよ。浅沼ちゃんとか……あと、宮祀ちゃんも必死だったわねぇ」
「……それは、見たらわかる」
　テキストを見ると何度も消して書き直した跡があったり、難しいと感じた場所に印がついていたりと努力の痕跡がしっかりと残っていたのだ。
「確かにそうね、ふふ、ごめんなさい」
　いたずらっぽく笑うフジコ。義弘はフジコから目をそらすようにして、参加者名簿に評価を書き込んでいった。
「久保田ちゃんと島岡ちゃんはどうかしら」
　フジコが桐島から離れていってふたりの様子を覗きこんだ。
「こっちはあとちょっとかかるわ」
「え、あ、あのこっちはまだかかりそうです」
　現国担当の久保田 美和と英語担当の島岡雪乃は机から顔を上げずに返事をした。
　添削作業に時間を要しているようで、時折ふぅとため息をついている。
（邪魔をしない方がいいわね）
　フジコはそっとふたりから離れて、理事長・桜栄 あずさに声をかけた。
「ラブレター、どうでした？」
　するとあずさの赤い唇が気持ちのいいほど弧を描いた。
「なんだか、久しぶり……って気分ね」と言うと、あずさはフジコの鼻先に二枚の原稿用紙を突きつけた。
（読めってことよね）
　フジコは無言で受け取り、中身に目を通した。
　一枚目。
『言葉は雪だ。
　やがて溶けて消えてしまう、どれだけあなたへの想いを重ねようとも。
　それならいっそ空気になりたい。
　あなたを優しく包み込む暖かな空気に、俺はなりたい』
　そこまで読んでフジコは一度目をそらした。ひとつ咳払いをしてから、一番最後の差出人の名前を確認する。
　霧生 深雪。
　フジコは今度会ったら、このセリフを言わせようと心に決めた。
　甘酸っぱいセリフに頬を緩ませながら、二枚目の原稿用紙を開く。
『あなたは、椿だと思った。
　しんしんと積もる雪の中咲いた艶やかな花。
　一目見ただけで、俺は恋に落ちました。
　そもそも男なら、惹かれない奴なんているんだろうか。
　届くかもなどと高望みはしない。
　伝えられなくてもいい、この気持ちは。
　ああ、願わくばどうか、今日もどこかであなたの笑顔が見られるように――』
　この手紙は一度も目をそらさずに最後まで読み通す。そして、同じように差出人の名前を確認してフジコは「なるほどね」と笑う。
「どうかしたの？」
　あずさが不思議そうにフジコに尋ねると「本宮 虎治。彼とはぜひ芝居を打ってみたいなって思ったの」
「ふーん」
　興味があるのかないのかよくわからない返事をするあずさ。
　フジコはそんなことよりも虎治のことを思い返す。
　面倒だと言いながら、恥ずかしい台詞を書くことに何の抵抗もせず、ひたすら必要な技法を詰め込む男。
　フジコは乾いた唇をぺろりと舐めた。

　雪乃のペンが止まった。
「どうしましょう……」
　しかし仕事が終わったわけではないようだ。
「なにかあったのかい？」
　すかさず俊介が声をかける。さすがモテル男は違うのだろう。
「何人か判断に困る生徒がいまして」
「例えば？」
「桜井 ラッセル君の……」
　雪乃が指差す先を見ると
『I am sorry because I skip school.
　I reflect very much.』
　実に直接的な謝罪の言葉が綴られていた。
「まぁ、これはこれでいいと思うんですけど……」
「うーん」
　人生がかかっているといっては言いすぎだが、どちらにせよ気軽なことを言える場面ではなく俊介も悩んでしまう。
　悩んだ末に言えたことは「努力を認める、っていうことでいいんじゃないでしょうか」というようなこと。
「え、と、そう、ですよね」
　雪乃も同じ結論に達したようで、迷いながらラッセルの評価を書き込んだ。
「それと、」
「まだ他にもいるのかい？」
「ええ、英語が苦手なはずの御剣 刀君はすごく頑張ってくれたんですけど」
「けど？」
「英語が得意な桃川 圭花さんが……」
　再び指差された詩に目を通した。そこには失恋ゆえに、なにも手に付かないという心情がありありと綴られている。
「あー……」
　今度は出来過ぎて困ったという話だった。
「桜崎 巴さんもよくできた詩を書いていて、桃川さんもそうなんですけど、」
「これがフィクションかどうかという話ですか？」
「ええ……創作なら問題ないんですけど、事実だとすると反省という点からずれているような気がして」
「うーん」
　これまた再び俊介は悩んだ。
　けれど今度はそれほど考えこむことなく「英語でこれだけ素敵な詩を書いた、という点を評価すればいいんじゃないかい？」と柔和な笑みを浮かべた。
「そうですよね」
　雪乃も釣られるように穏やかな笑みを浮かべる。そして評価を書き込んだ。


「な、なんとか、終わりました」
　雪乃の声が背中の向こうで聞こえた。けれど美和は机に伏せたまま起き上がれなかった。
　こんなの無理、絶対無理、どうしよう、見せても大丈夫かな？
　喉元まで出かかった言葉をぐっとこらえて、美和はどうにかして声を出した。
「……技術的な評価は終わりました。あとは、校長先生と教頭先生が決めてください」
　いつもの元気いっぱいな姿は何処へやら。なんとかそれだけ言うと、美和は深い深い溜息をついた。
（まぁ、なんとかなるよね！）
　原稿用紙を手に取る音がして、美和は身を固くした。
『雨宮草太郎様
　貴方はまるで縫いぐるみのよう。
　ああ、貴方を触り、抱きしめたいわ。
　貴方が口を開けば皆が笑顔に包まれる、きっと貴方のプックリぽよんぽよんしたお腹には、皆の夢と希望が詰まっているんだわ。
　そのお腹をナデナデしたい女の子は、私だけではない筈よ。
　貴方は皆の人気者、貴方以上の人がこの世界にいるかしら、いいえいる筈がない。
　だから私は柱の陰に隠れ、物思うの、たった１人で。
　私の可愛い可愛い縫いぐるみさん。
　大好きなの、独り占めしたいの。
　お願いだから受け取って、私の想い。
　気付いて頂戴、私の恋心
　後木 真央』
　これは褒めているのかなんなのか。美和が頭を悩ませたラブレターだったが、
「いや～照れますね」と校長の嬉しそうな声が聞こえてきた。
（特に問題なしね）
　なんとか手に力を入れて、美和は後木の評価を下す。
（で、でも問題は次なのよね）
　きゅっと胃が収縮するような気がする。どうしてこうなったのだろうと美和は痛む頭を押さえた。
「では、次も読ませてもらおうかな」
　穏やかな校長の声が聞こえる。比例して胃が軋む。美和はぎゅっと目をつぶった。
『黒崎 俊介 様

　おお、チャオチャオ。
　その麗しき艶々した黒髪。
　鴉の濡れ羽のごとく輝き。
　女神の寵愛を受けし美貌よ。
　そは幾億の札束で手に入るというのか。
　わしにも少し分けてほしい……

　その涼やかな瞳の奥に君はどんな情熱を秘めるのか。
　決して目立ちすぎることなく空気に溶け込み
　難問に挑む笑みのなんと爽やかなことか。
　真珠のごとく秘めた涙を
　わしにも見せてくれていいんじゃよ？

　寝子高の輝かしき未来のために。
　手に手を取って高みを目指そう。
　上辺しか見ない輩には
　永遠にわからぬダイヤモンドの価値。
　君は地上の宝石。

　わしがあと少し若ければ…
　言っても詮無き思いなれば
　胸に秘め進むのみ。

　雨宮 草太郎』
　響 タルトのラブレターは校長から教頭へと想定されたものだった。
　校長が押し黙る。教頭も押し黙る。中身を見たフジコとあずさは大爆笑。
　美和も、きっと他人ごとであれば笑っていただろうと思った。