二月の魔法は春を呼ぶ｜リアクション

二月の魔法は春を呼ぶ

　目が覚めて簡単に着替えて身づくろいした。朝食の支度のつれづれに、なにげなくつけたスマホのラジオからはなめらかな英語が流れ出した。海外の放送でも入ったのかと思ったが、実際は民放のFM局だった。
「全国三十七局ネットでユカ・オオツキがお送りしています」
　どこかで聞いた名前の人だな、そんなことを考えながら倉前七瀬は、女性DJのトークを流しつつケトルを火にかけた。
　番組では視聴者からのメールを紹介していた。寝子島からの投稿らしい。読み上げてからDJはつづける。
「そうなんですよね、私も先日寝子島にお邪魔しまして。それがバレンタインデー当日だったんです。バレンタインって一週間前から当日くらいまでは盛り上がるものの、大抵の地域では十四日がクライマックスというか、翌日になるともう終わった雰囲気になっちゃいますよね。でも寝子島ではむしろそこから、って感じなんです。十五日から二月末までは『デートウィーク』っていう恋人たちの二週間が幕を開けるそうなんです。盛り上がってましたね。全島的にイベントがあったりして、とくにバレンタインで生まれたてのカップルがはりきるという――」
　デートウィーク、そういうのもあったなあ。
　行政主導の独自イベントの多いこの島だが、こればかりはリッカルド町長の企画ではなく自然発生した風習だと聞いたことがある。バレンタインデー直後の二週間だが、実際にバレンタインデーを通過したかどうかは関係ないらしい。デートウィーク期間中は魔法がかかったみたいに、いつもは塩対応の彼女や彼も、お誘いにOKをくれる確率があがるという都市伝説もある。
　もちろん七瀬も知ってはいるが、自分には縁がないものと片付けており、これまでとくに心に期すものもなかった。
「それでは、先ほどお読みしたメールのかたのリクエストナンバーをお送りします。ヴァインランズで“It's you who's wrong”」
　薄雲がかかっていたような寝起きの頭が一気に覚醒した。
「ヴァインランズって！？」
　ウォルター･Bが好きだと言っていたバンドだ。マイナーなまま終わったので知っている人は少ないという。
　ウォルターは学生時代の音楽の成績は悪かったというが、それはけっして彼が音楽嫌いという意味ではない。クラシックこそ苦手らしいが古いガレージロックやパンクは好み、ハイスクール時代はバンド活動もしていたそうだ。担当楽器はドラム、本人いわく『僕のドラムは壊滅的に酷かった』というが実際はどうなのだろうか。この事実をウォルターは多くの人に秘しており、長年使えているメイドのメアリ・エヴァンズにすら黙っているという。もっとも、メアリが彼の母親的存在なのだとすれば、音楽の趣味を親に隠したがるのはある種自然な心理かもしれないが。
　全身が耳になったように七瀬はスマートフォンにかじりついた。
　あのヴァインランズ――？
　小雨降りそぼつ明け方を思わせる静かな音楽だ。陰鬱ではあるが妙に耳なじみがいい。なんの確証もないとはいえ、一度ウォルターの車内で聴いたあの感じに近いと思った。名前の聞きちがいでなければきっと同じバンドだろう。
　投稿者は寝子島在住、それでヴァインランズをリクエスト。
　これはもしかすると。
　曲が終わると、ユカというDJはもう投稿についてふれなかった。
　たまたまつけたラジオで、ウォルターさんとおぼしきメールが紹介された。
　しかも話題はデートウィーク。
　偶然と捨ておいていいのかな。何かの暗示と考えるべきでは……。
　スマホに手を伸ばす。
　このとき鋭い音がたち七瀬は飛び上がりそうになった。
　火にかけたケトルが警笛のような音を発しているのだった。沸騰したのだ。
　コンロをとめ心を鎮めるべく深呼吸した。スマホは置いたままだ。
　せっかくのお湯をそのままにして、七瀬は書棚に近づくのである。
　早まった行動をする前に。
　いくつかの辞書を取り出した。一番分厚くて重いもの、ハンディな携帯用、そしてその中間も。
　単語『デート』を引いてみた。もちろん『日時』とか『日付』とかの単純な用法ではなく、この時期における意味をさぐることが目的だ。
『愛し合う男女が日時を決めて各自の家以外の場所で会うこと。また、その約束。』
　いきなり強火の定義が出た。
　これから誘う相手は恋人ではないし、恋愛的な意味で好意があるかというと、肯定も否定もできない。
　愛し合う……つまり相思相愛といえるかなんてわからんです。
　好き。言葉にするならそれがすべて。
　いずれにせよ『男女』と前置きされている時点で、デートの定義からは外れるのでしょうね。
　ため息をつく。
　別の辞書の定義はこうだ。
『場所や日時をさだめて異性と会うこと。逢引（あいび）き。』
　逢引きときましたか。
　しかもまた『異性』なる限定つきだ。とすれば七瀬は、永遠にウォルターとはデートできないことになる。
　やっぱちがうんですね、僕らが外で会うことは。ただの『お出かけ』『外出』となるんですかね。
　なかばあきらめかけていたが次の辞書で、七瀬は「おっ」と声を上げたのである。
『恋い慕う相手と日時や場所を決めて会うこと。』
　異性に限定されていない。
　相思相愛とか交際なんていう枷（かせ）すらない。
　恋情をよせていればいいことになる。たとえ片想いであっても。
　発行年月日を調べたところ、三番目の辞書が一番新しいものとわかったことも歓迎したかった。
　これでいい。
　まあたとえデートウィークらしいデートでなくたって。
　僕が一緒に出かけたいと思う人は、やはりあの人しかおらんのですよね。
　ふたたびスマホを手にしてFMラジオアプリを閉じると、七瀬はウォルターにNYAINメッセージを送った。
『寝子島はデートウィークらしいです。それで、もしお時間あれば僕とデートしませんか？』
　以上が、簡単ながら最初の呼びかけだ。

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