あなたがここにいてほしい｜リアクション

あなたがここにいてほしい

　夜空の月にはたなびく雲がかかって、すべて見えているとは言わないものの、澄みきった冬の空気のおかげか、煌々たる輝きはまぶしいほどだ。むしろ雲のおかげで、月の美しさが際立つように思う。
　息が白い。歩けども歩けども山は深く、無限の懐に包み込んでくれるような気がした。
　すでに夜遅い。通りかかる者もない。鳥の声すら聞こえない。
「絵になりますねえ」
　倉前七瀬はつぶやいた。
　スマホのカメラを月に向ける。
　シャッターを切る音はまるで拍子木、一瞬高く鳴り響き、黒い木々に吸われていく。
　来てよかった。
　ふと思い立ち、七瀬は夜の散歩に来ていた。それも九夜山中に。
　中島敦『山月記』。現国教科書にも載っていた短い話を、たまたま手にして読み返したのがきっかけだった。
　夜の山で月を眺めたい、そんな衝動に駆られ、いてもたってもいられなくなり七瀬はダウンジャケットに手を伸ばしたのである。時刻も寒さも七瀬を止めることはできない。
　暗い山道につまずくこと数度、それでも着実に山道をたどって、見晴らしのいい景色へとたどり着いた。

　時に、残月、光冷やかに、白露は地に滋（しげ）く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。

　作中の一節を思い出す。
　残酷なまでの美しさではないか。
　美しいのは月ばかりではない。黄金の光を浴びて木も岩も、斜面を転がり落ちる石ころでさえ、夢の中の光景のようにほの白く心惑わせる。
　目にしたいくつかを撮影する。無粋なフラッシュは焚かず、月光だけを頼りに瞬間を切り取っていった。
　途中、足を止めて撮影データをチェックした。
　すべての写真が上出来とはいえない。しかしかなりの枚数が、現実を忘れるような仕上がりだったでのある。
　幽明な美があった。この世のものとは思えぬほど。
　過去を幻視した映像、あるいは、冥界で売られている絵はがきのようです。
　こんな時間に――。
　迷惑かなとも思ったが、どうしてもこの美しさを伝えたくなり七瀬はNYAINアプリを立ち上げた。
【九夜山に来ています。景色が綺麗です】
　月の写真を添付する。岩の写真と、途中で見たお堂の写真も。
　宛先は、ウォルター・B。
　まだ眠るには早い時間だ。とはいえウォルターのことだから、早々とベッドの中かもしれない。英国人らしくナイトキャップをかぶってシルクのナイトガウンで。いや、裸で寝ているかもしれない。イギリス人の約四割が、裸で寝ているという記事を何かで読んだことがある。
　といっても実際は、まだ起きていることだろう。それくらいの時間だ。
　紅茶を片手に暖炉にあたって、読みかけの文庫本をひらいているウォルターを七瀬は想像した。それとも、長い間忘れていたレコードを棚から引っ張り出して、メアリを驚かさないようボリュームを絞り、そっと針を落としているところかも。
　いずれにせよ、何度もメッセージを送ってうるさい思いをさせたくはない。
　いま一通だけ。
　山頂からの光景を写した一枚を添付して、送った。
【それと……、あとで会いに行ってもいいですか？】　
　この見事な夜を、ほんの少し、ちらっとだけでもいいからウォルターの姿を見て締めくくりたかった。
　七瀬は小高い丘にたどりつき、東屋（あずまや）に入ってベンチに腰を下ろした。
　屋根こそあれど柱のほかは吹き抜けだ。幻想界の住人になった気持ちで、月明かりをたよりに本を紐解く。彼の返事を待ちながら読むとしよう。
　萩原朔太郎『月に吠える』、詩集だ。月つながりで選んだ一冊だった。
　詩が飛び込んでくる。ざくざくと刻むような旋律、多分に音楽的要素を含んだ詩が情景に感情をかさねてつらなる。
　たとえば、『冬』と題された短い詩はこうはじまる。

　つみとがのしるし天にあらはれ、
　ふりつむ雪のうへにあらはれ、
　木木の梢にかがやきいで、
　ま冬をこえて光るがに、
　おかせる罪のしるしよもに現はれぬ。

　罪科の象徴としての、冬。
　なんと冷たい表現だろう。触れれば切れそうな鋭さもある。
　僕に罪があるのだとすれば――。
　それはウォルターさん、あなたを好きになったこと、なのでしょうか。