あなたがここにいてほしい｜リアクション

あなたがここにいてほしい

　夕方のスーパーマーケット、リックことリチャード・ヤンはカートを押していた。
「なるほど、日本のスーパーはシリアルや冷凍食品の種類が少ない。だが健康志向の商品は充実しており、豆腐、納豆などヘルシーな大豆加工品は豊富か」

　ブツブツとつぶやいてしまうのは元マーケティング会社所属ゆえの職業病だろうか。肩幅のある体格、スリーピースのスーツにネクタイ、スーパーの買い物客の中では浮いている。服装の話だけではない。リックは単に日用品の買い物でも。ただの買い物客になりきることができなかった。どうしてもマーケットリサーチャーの目になってしまうのである。かつてリックは元ホテルのレベニューマネージャー（収益責任者）であり、金融業界で働いていたこともある。MBA持ちの一流ビジネスマンなのだ。
　リックは独り言をしているわけではなく、七歳の娘に話しかけているのだった。しかしその娘はといえば、
「はいはい、お父さん。おつとめ品の白菜が半額ですよー」
　と父のワールドビジネス人工衛星的なトークを軽く聞き流し、さっさとカートを埋めていっている。彼女にとって父のこういう言動は慣れっこなのだ。なお娘は五十嵐ともかといい、寝子島高校教師五十嵐尚輝の姪（尚輝の姉の娘）にあたる。
「お父さん、お菓子を買っていいですか」
　ともかは父相手にも敬語だ。
「ともか、購入行動を取る際は原価を考えるんだ」
「はい。なので『カドっこぐらし』のシールつきグミにします」
「なるほど、シールは食玩よりずっと原価率が高い」きらりとリックのメガネが光る。「good choiceだ」
　ともかがグミをカートに入れようとした、そのときである。
　どさっと音がした。
　スーパーのレジカゴだ。床にある。なかに入っていた牛乳パックが大きく跳ねてカゴからこぼれた。
　少女が立ち尽くしている。カゴは彼女の腕から滑り落ちたのだった。
「義弘先生……！」
　少女――宮祀智瑜は、もともと黒目がちな瞳を黒いビー玉のように見開いて身を震わせている。
　リックはともかと顔を見合わせた。『義弘先生』なる人物があの少女（智瑜）になんらかの衝撃を与えたことだけは想像がついた。
「義弘先生、子持ち、だったんですか……っ！？　奥さんは誰なんですか？」
　静かな、されど手で触れられそうなほど明確な怒りを感じさせる口調だ。リックは思わず数歩後退した。少女にそれほどの迫力があったから。顔面は蒼白、一方で目には真っ赤な炎が宿っている。
「『義弘先生』とやらいう男はあの子を騙していたようだな。なんて卑劣な男だ」
　義憤を感じているのか、リックもともかの手をぎゅっと握っていた。
　見たところ少女は未成年ではないか。妻帯者が独身を偽って未成年女子をたぶらかす、娘の父親たるリックからすれば許しがたい話である。残念ながらワシントン界隈でもこの手の話はよく耳にしたものだ。そういえば前にいた金融機関でも、リックの同僚は未成年淫行で逮捕され失職した。
　しかし理解しがたいことがある。少女はカゴを拾おうともせず、つかつかとこちらへ近づいてくるのだ。
「だから私の告白に応えられなかったんですね。教師だからだとばっかり思ってたのに……！」
　と言いながらだ。
　リックは首を巡らせる。しかし周囲に子連れの男性は自分だけだ。
「もしかして私に言っているのか……なぜだ！？」
　少女は蒼白な顔色でやってくる。
「お父さん……」
　ともかがしがみついてくる。
「Believe me, Tomoka. Your Daddy is DEFINITELY NOT such an immoral man.（信じてくれともか。君のダディは断じてそんな不道徳な男ではない）」
　リックはとっさに英語で口走った。だが状況的にはどう見ても自分が悪者、誤解を解くにしてもまず、あの少女が冷静になるための時間を稼がねばなるまい。
「いったん逃げる！」
　アメリカ育ちでも芯はアジア系、孫子の信奉者たるリック・ヤンは、娘を抱きかかえるようにして兵法三十六計のうちの最上計を実行に移した。すなわち、奥の通路へと遁走したのだ。
「待ってください義弘先生！　待って！」
　恋する乙女は積極的、虎のように果敢に智瑜は彼を追った。