狂気の笑顔が悪意をばらまく｜リアクション

狂気の笑顔が悪意をばらまく

　魚市場の近くで三夜深夜子は猫に変身した。二足歩行は変わらず、スーツも着ていた。
　掛けていた眼鏡は鼻が低くなったことで下がり易くなった。数分に一回はブリッジに前脚を当てて押し上げた。
「良い香りがするわ」
　歩いていた道を逸れて魚市場へ入っていった。
「そこの大人びた猫さんに新鮮な魚を提供しよう。今なら半額どころか無料でプレゼントだ」
「良いのですか？」
　猫語は通じなかった。深夜子の反応を理解した若い店主は掴んだ生魚を手渡す。
　――なんだろう。生魚がとても美味しそうに思える。猫になったからかしら。
　浮かぶ疑問は湧き起こる食欲に押し流された。立った状態で魚に齧り付く。器用にウロコを口で吹いて柔らかい魚肉の味を堪能した。
「こんなに美味しいなんて……」
　起こる感動で身体が震える。
　味の余韻に浸りながら深夜子は奥へと向かった。賑やかな一角に目が留まる。
　多くの猫達が身を寄せ合って生魚を食べていた。その向こうでは青黒いアライグマが魚を洗っては猫達の元に届けた。
「え、テレビの情報だと、アライグマは猫の天敵では？」
　立ち止まって様子を窺う。
　――新鮮な魚で猫を誘惑して、気の緩んだところを狙って急所を一噛み、ではないみたいね。それなら私にも魚をくれるのかしら？
　踏ん切りが付かないところへコンノ・グラスハーベルが声を掛けた。
「お魚を希望ですか」
「はい、できれば」
「空いているところにご案内します」
　赤茶けた猫の姿となったコンノがゆっくりと歩き出す。
「ここに、どうぞ」
「ありがとう」
　礼を言うとコンノは軽く頭を下げて他の猫にも声を掛ける。
「親切な猫ね」
　余所見をしている間にアライグマは深夜子の前へ五尾の魚を順に置いた。
「あら、こんなに。ありがとう。いただくわ」
　食べ応えがあり、魚の種類によって味は様々。濃厚と淡泊と弾力を存分に楽しんで食べた。
　――仕事のストレスが幸せな味で溶かされていくみたい。満腹になるのが悲しく思えるくらい、本当に美味しいわ。
　腹の出っ張りを感じるのか。僅かに顔を上げて息を吐く。
　青黒い蝶が飛んでいるのを見た。目で追い掛けると横切って少し高さを下げた。
　――アライグマと同じ色をしているわ。少し気になる存在よね。使えるかわからないけど、試してみる価値はあるわ。
　離れ難い気持ちを振り切って深夜子は蝶を追い掛けた。
　手の届きそうなところで立ち止まり、先の展開を考えながら十秒を目安に話し掛ける。
「あなたの未来を視させて貰うわね」
　ろっこんの条件が揃い、『彼の先見知る炯眼』が発動した。
　青黒い靄が一方へと逃げていく。魚市場を抜け出し、どこまでも飛んでいく。その行き着く先まではわからなかった。
　効果が終わり、現在の蝶の姿となった。深夜子は前脚を振って切り裂いた。
　青黒い靄を追わず、アライグマのところに戻る。
「癒されるわ」
　提供される生魚の味を存分に噛み締めた。