狂気の笑顔が悪意をばらまく｜リアクション

狂気の笑顔が悪意をばらまく

　巫部紫苑は老舗の温泉旅館を訪れた。溢れる食欲を抑え、美白効果の噂がある露天風呂に直行した。
　仕切られた引き戸を開けると、全身が白い煙に包まれた。
「天然温泉の香りがします」
　敷き詰められた石の上をペタペタと歩いて露天風呂を覗き込む。湯面にふさふさした茶色い毛のメインクーンが映っていた。紫苑が首を傾けると同じような動作をした。
「この猫は、もしかして私ですか？」
　紫苑の関心は周囲へ向かう。
　温泉客が目を押さえて倒れていた。猫も同じような姿で転げ回る。
　風が吹いて更に状態が鮮明になった。露天風呂では恵御納久隆が青黒いサル達と戦っている。
　一際、身体の大きいサルは桜と睨み合うようにして肩まで浸かる。どちらも荒い息で身体をぶるぶると震わせていた。
　それを見た紫苑は軽く尻尾を振った。
「寒いのでしょうか」
　前脚を湯に入れると慌てて引き抜いた。
「熱すぎます。いくら美白効果があっても、これでは火傷します」
　のんびりとした口調で目をキョロキョロさせる。隅の方に隠された清掃用のホースの先が見えた。
「使えそうです」
　隅に目を向けた瞬間を狙うように青黒いサルが飛び掛かってきた。それを久隆が阻止した。背後に回って首の辺りを締め上げる。
「ここは危ない」
「ありがとうございます」
　紫苑は前脚を合わせた。感謝の気持ちを表現しつつ、ろっこん『死音』を発動させた。
　その効果で石の床を歩いても音がしなくなった。隅のホースの先を咥え、露天風呂の目立たないところにそっと入れる。
　もう一方を咥えると引き戸へ向かう。前脚で少しの隙間を作り、蛇口にしっかりと嵌め込んだ。
「これで水を出して露天風呂の温度を下げましょう」
　うきうきした声で実行に移す。開けた隙間から露天風呂に戻ると、腕を組んでいた巨躯のサルが天に助けを求めるように手を伸ばしていた。水上桜の震えは大きくなって、気合よ！　と叫んだ。
「皆さんが元気になって嬉しいです」
　紫苑はホースを沈めたところに戻るなり、咥えて持ち上げた。更なる活力を分け与えるつもりで掛けて回る。
　ろっこんの効果で全く足音がしないこともあって、青黒いサル達はまともに受けた。最後に残された巨躯のサルには相応しい量をたっぷり浴びせた。
「これだけすれば、ぬるくなって入れますね」
　紫苑は人気の少ないところまで行って前脚を入れる。
　瞬間、引き上げて頻りに振った。
「さっきよりも熱いです。どうしてでしょう？」
　紫苑が湯面に顔を近づけている間に、サル達は青黒い靄となって逃げていった。
「か、勝ったわ……もう、限界」
　桜は露天風呂から這い上がると床に倒れた。石の冷たさに、気持ちいいー、と気の抜けた声を漏らす。
　久隆は荒い息で露天風呂の縁に立った。
「冷えた牛乳が飲みたい」
　青い空を見上げて生唾を呑んだ。
「あ、これは水ではなくて、熱湯ですね。あははは、とんだうっかりさんですね♪」
　紫苑の高らかな笑い声が勝利の凱歌となった。