【エルデスト１Ｆ：テーブル席】

「クフフ♪　おっ待たせえ！　ナーシャの誕生日パーリィにやって来たよお！」
　夜になりパーティの雰囲気もこなれて来た頃、ようやくオリガ・ドラグノーヴァがエルデストに現れた。旧市街の自分の店から持参した、いっぱいのロシア料理を携えて。
　ナーシャと呼ばれたその友人、時枝 香苗が振り向いてオリガを迎える。
「遅かったですね、オリガさん。心配しましたよ」
「いやあ、校長先生もパーリィに来たら、きっと皆驚いちゃうんじゃあないかなあ、と思ってね！
　誘いに行ってたんだけど、断られちゃったよお！
　もう充分お祝いしてもらったから、君たちで楽しんできなさいって！
　残念！　校長先生が盛り上げてくれると思ったんだけどなあ！」
「おや、オーリャお嬢ちゃんじゃねェか」
「オーリャさん、こんばんはなのよ〜」
「プリヴェート！　やあノーリャおじさま、モーラ！　それにロヴューシャ！」
　顔見知りの鹿黒 暖簾や花風 もも、後輩のロベルト・エメリヤノフに気さくに声を掛けて回るオリガ。店員に断ってお皿を借り、数々のロシア料理をテーブルに広げる。
「わっ、すげー美味そうな匂いだな！」
　その匂いにつられて、六月一日宮 檸檬、神野 美野梨もテーブルに集まってきた。
「これは何かしら？　大きな、揚げ餃子みたいね」
　興味深そうに１皿を手に取る美野梨に、香苗が横から説明する。
「それはチェブレキ、羊の挽肉の包み揚げですね。
　そちらのコトレータはロシア風カツレツ。私は鶏のものを頂いたことがあります」
「クフフ♪　それにピロシキにブリヌイ（ロシア風パンケーキ）もあるよお！
　デザートにはババ（ロシア風ケーキ）！　さあ召し上がれ、ナーシャ！」
　どれも香苗が、オリガの店で食べたことのある料理ばかりだ。きっと憶えていてくれたのだろう。
「ねえねえ、ロシアにもレモンを使った料理って、あるんすか？」
　積極的に尋ねてくる六月一日宮にオリガが、
「クフフ♪　ボールシ（ボルシチ）はレモン汁も使ってるんだよお、食べてみてえ！」
「へえぇ……じゃあ俺も、いっただきま〜す！」
「あとは、このシャシリクかなあ！　漬けダレに一晩漬けて焼いた、串焼き肉だよお！」
「やあやあ、これは大層食欲をそそる香りですね（シュタッ）
　僕も是非ご相伴にあずかろうかな！」
「うんうん！　みんな、好きなだけ食べてってねえ！
　……ってロヴューシャ。今日何だか、喋り方ヘンじゃなあい？」
「おや、何のことでしょうかオリガ先輩。
　僕はいつもこんなふうに大人しくそれはそれは模範的な態度の模範生ですが何か？」


【エルデスト１Ｆ：ピアノ】

　霧生 深雪のイライラは、そろそろ頂点に達しようとしていた。
（つーか、なんだよロベルトの奴……）
　向こうのテーブルで、オリガたちと親しそうに談笑しているあのロシア人、ロベルト・エメリヤノフは、霧生の険しい視線にもまるで気付かないままだ。いやむしろ、意図的にこちらを無視しているようにすら思える。
（いつもは気持ち悪いくらいセクハラしてきたりするくせに……
　俺のこと放っとくとか何様だよ！　もっと構えよ馬鹿！）
「あ、あれ？　何考えてんだろ俺……あーもー！」
　自分に狼狽し、ガタッと席を立つ霧生。取り皿の上のケーキは、手付かずのままだ。先ほどのマスターに許可を貰って、そのまま店内中央のピアノの前に腰掛ける。
（ああ……、やっぱピアノに触れると、落ち着くな）
　もやもやした心を振り払うように、そっと鍵盤に指を置く霧生、

　最初の１音で、ロベルトがこちらを振り向いた。


【エルデスト１Ｆ：テーブル席】

「クフフ♪　ナーシャは本当に、美味しそうに食べるねえ！」
「あら……」
　はしゃぐオリガ・ドラグノーヴァにそう言われて、空になったテーブルの皿を、改めて見回す時枝 香苗だ。恥ずかしそうに片手で口を押さえて、
「ついうっかりいつものように食べてしまいそうになりました。
　……私としたことがはしたない」
　見かけに似合わずこの香苗、ずいぶん大食いさんのようである。
「オリガさん、こちらも美味しいですよ。どうぞ……
　ああ、両手が塞がっているんですね。仕方がありません。はい、あーん」
「良いね良いね、ナーシャはさいっこーだねえ！（もぐもぐ）」
「あら、なんですか。他意はないのですけれど……。
　ああ、こちらも美味しいですよ……あら、この曲は……？」
　そこで流れてきたメロディに気付き、香苗は小首を傾げて振り向いた。見れば、２年の先輩がいつの間にか、ピアノの前に座って演奏している。
「何だか、ロマンチックな曲ですね」
　最初は何かを拒絶しているかのような、頑なな音だった。けれど曲が進むにつれて、その頑なさがゆっくりと溶け、心をざわめかせる甘美なメロディに変わっていく。
「クフフ♪　これはリストの『愛の夢』だねえ！」
　フランツ・リスト作、１８５０年のピアノ曲だ。難解な曲が多いリストの作品の中では珍しい、穏やかでロマン溢れる小品である。
　うっとりと目をとじ、コトンとオリガの肩にもたれて、そのメロディに浸る香苗。
「あららあ？　ナーシャ、寝ちゃったのお？」
「いえ、でも何だか、良い気持ちで……不思議な気分です……」
「駄目だよお、ナーシャ！　まだパーリィは終わってないよお！
　ほら、ロシアンティーでも飲んで、目を覚まして！」
「……（すう）」
「仕方がないなあ！　クフフ♪　本式のロシアンティーは、
　口にジャムを含んでから、紅茶を飲むんだよお！
　さっきのお返しで僕がナーシャに、ジャムを食べさせてあげようねえ！」
　と自分の口に薔薇ジャムを含み、それを口移しで香苗に与えようとするオリガ──
「えっ……？」
「ありゃりゃ、失敗失敗♪」
　ぱちくりと目を開けた拍子に、香苗の頭が肩からずり落ち、目測が狂ってしまった。香苗の服にべったりとこぼれてしまったジャムを、
「クフフ♪　でもこれはこれで……」
　と丹念に舌で舐め取ってやるオリガだ。
「あら、いけませんよオリガさん。そんな、汚いですから……」
　しばらくは自分で拭こうとしていたものの、やがて諦め、ぼんやりその銀色の髪を撫でながら、彼女の好きにさせてあげる香苗なのだった。


【エルデスト１Ｆ：ピアノ】

　最後の１音が消える余韻に、うっとりとバーの聴衆が浸っている中、真っ先に拍手して走ってきたのは、ロベルト・エメリヤノフだった。
「早えよ、ばーか」
　演奏を終えたばかりの霧生 深雪の両手をにぎり、
「すごい！　すごいよ霧生！
　今度演奏を聴かせてってあの約束、本当に憶えていてくれたんだね！」
　あの妙ちきりんな喋り方も、すっかり元に戻っているロベルトだ。
「ねえねえ今の、何て曲なの？」
「気になるんだったら、自分で調べろ」
　こちらも、いつものそっけなさが戻ってしまった霧生だ。けれど、何故ロベルトが自分を避けていたのか、その理由を聞き出すと、
「……ハア？　緊張して話せなかった、だあ？
　いつもあんなにまとわり付いてきやがるクセに、いまさら何言ってんだお前」
「そうなんだよねえ……」
　とこちらも不思議顔のロベルトである。そんな彼に、つっけんどんに突き出されるもう１つのプレゼント。
「えっ……？　ききき霧生が、この僕に？」
　慌てて開けば、その中身はオルゴール。蓋にアグロステンマの花の意匠が施してある、オーダーメイド品だ。そして蓋を開ければ、そのオルゴールからゆっくりと溢れだすのは、今しがた霧生が弾いた『愛の夢』の音色。
「うわあ！　霧生！　霧生！　ありがとう！！」
　跳び上がって喜ぶロベルト、
「あっでも、ねえ霧生、この蓋の花はなに？　何か意味あるの？（ぴょんぴょん）」
「うるさい、知るか。だから俺にまとわり付くなと」
　そう、その花の名も花言葉も、こいつには絶対に秘密だ。

（俺の気持ちなんて知らなくていいんだよばーか）