わけもなく、こころから｜リアクション

わけもなく、こころから

　うなじと後頭部にかけて、てのひらと指の熱。
　何者にも触れさせぬとばかり、何者からも護るとばかりに頭を抱きしめられ、稲積柚春は跳ねる心臓の音に息を詰まらせる。
　額に触れるウォルター・Bの胸のあたたかさに、絡む指先の力強さに、爆発してしまいそうなほど頬に熱が上るけれど、
「……稲積、大丈夫だからねぇ」
　髪に触れる『先生』の言葉に、跳ね回っていた心臓の熱が静かに冷えた。
　視線をもたげる。見上げた先、上目遣いの柚春と視線を合わせるように、得体の知れない場所に怯える子どもをなだめるように、ウォルター先生はにこりと笑んだ。
「先生が稲積を護るからねぇ」
　殊更にいつも通りののんびりとした口調で話しかけてくれる『先生』の斜め横顔を見上げたまま、柚春は唇を引き結ぶ。
(こんな所でも『先生』の顔……)
　周囲を埋める夜の色も、水に沈むように落ちて行く身体も、あちこちに漂う無数の本も。現実の世界にはあり得ぬ景色は、これから先どう変化するのだろう。
　訪れる変化は、自分と先生にどんな影響を与えるのだろう。
　そう言えばさっき先生と手を繋いだ瞬間に周りを漂う小瓶から溢れた光は何だったのだろう。薄紅や純白の色した、アザレアの花びらのような光。
　瞬きを幾つかするうちに花のような光は夜色に溶けて消えてしまった。微かに残っているのは、初夏の花を思わせる甘い香り。
「……『先生』……」
「怖いよねぇ」
　常であれば見惚れてしまう端正な笑顔で見つめられても、優しく髪を撫でられても、指をぎゅっと絡められても、嬉しくなんてなかった。
　ふたりで夜の底に落ちて行っているのに、何が起こっているのかもまだ理解出来ていないのに、ウォルターは『先生』の顔のまま。不安も焦りも感じて当然のはずなのに、『生徒』である自分を護るためだけに取り繕っている。
　隠されている。
(それほど『生徒』の私にできることは少ない？)
　ふたりしかいない世界なのに。
　そう思った途端、肩にしがみついていたカプセルギアのворが風に舞うようにくるりと動いた。そのまま、ウォルターの額にコツンと足が当たる。
「っと」
　まるで飛び蹴りしてくるような玩具の動きに、先生は眼鏡越しの空色の瞳を瞬かせた。
「わ、ворっ」
　ウォルター先生と繋いでいない方の手で慌ててворの小さな身体を掴む。
「ごめんなさい、ウォルター先生」
「ううん、なんだか怒られたみたいだねぇ」
　元のように肩へ押さえつける瞬間、ворの瞳が拗ねたような光を煌めかせたように見えて、柚春は首を傾げた。
(僕の代わりに怒ってくれたみたい)
　だって、わかってしまった。
(この手は生徒だから繋がれてる)
　先生にとって自分が『生徒』なのは理解している。
　先生が『一線』を決して越えないことも理解している。
(僕は、まだ)
　結婚も出来ない齢の『子供』だ。
　けれど、それでも。もしかしたら、だからこそ繋いだ手の意味が感じ取れる。
(でも、……でも！)
　ここは学校でも寝子島でもない。現実世界のルールの外にある世界なのかもしれないのに、それでもやっぱり『先生』と『生徒』でしかいられないのだろうか。
　それがとてももどかしくて、ウォルターの胸に額をぐいと押し付ける。ここが学校でも寝子島でもないのなら。
「ウォルターさん」
　そっと、そうっと、すきなひとの名前を囁いてみることぐらいは許して欲しい。

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