テーブルの上には、あたたかな皿。
バターを塗った薄切り食パンと木の葉型した黄金色のオムレツ、レタスと人参、プチトマトのサラダ。
おはようございます、と一礼して淹れたての紅茶を置く初老の女性に挨拶と笑みを返す。
「朝ごはんをありがとう」
寝子島出身の祖母に躾けられたそのままに、席について姿勢を正す。いただきますと両手を合わせる。
「休日くらいゆっくりすればいいのに」
大学生の頃に寝子島に来て以来、ずっと身の回りの世話をしてくれている彼女の仕事はいつだって完璧だ。温かいものは温かいまま、冷たいものは冷たいままに食卓に並べてくれる。朝の珈琲は学生の頃から変わらぬ搾りたてのレモン果汁を数滴落とした熱い紅茶。過不足などないのに、彼女は毎朝テーブルの後ろにそっと控えてこちらの用命を待つ構えを崩さない。
「朝ごはんくらい僕だって作れるよ」
最近は休日になるたびに休め休めと繰り返し伝えているのに、
「わたくしの仕事を奪うおつもりですか、ウォルターさま」
祖母の代からブラックウッド家に仕えるメイドの返事はいつも変わらない。
頑固なメイドに
ウォルター・Bは小さく息を吐く。香り高いレモンティーを含み、さくりとパンを齧る。
「ねえ、僕が結婚したらどうする?」
「あら、良いお相手がお出来になられましたか」
気まぐれに言ってみると、普段はそう抑揚のないメイドの声が心なしか弾んだ。
「あの方も……おばあさまもきっとお喜びになられます」
「そうしたら君は引退してゆっくり暮らす?」
共に来日して十数年、雇用期限はとうに過ぎたのに、彼女は今もこうしてなにくれとなく身の回りの世話を焼いてくれている。自分のことくらい自分で出来るからと何度言っても、返って来るのは、
「わたくしの仕事を奪わないでくださいませ」
微笑み交じりの断固とした継続宣言ばかり。
「──それで、お相手は」
「……いないねぇ」
慕ってくれる生徒は男女問わず居る。それでも、彼らは『生徒』だ。
──ウォルター先生
その『生徒』のひとりであるはずの少女の、菫のような藍色の瞳が脳裏をふと過った。見仰いでくる真摯な瞳に宿る感情は恋に恋する少女めいた幼い恋慕か、それとも年上の男への憧憬か。
(僕は先生だからねぇ)
彼女の心に潜む己への想いが何であろうと、彼女が『生徒』である限り己は『先生』だ。その一線を越えるつもりは微塵もない。
(彼のようにはならない)
決死の思いで一線を越えたところで、待っているのは碌でもない結末であるのは、あの日──幼い憧れのままに警察官を目指していた十数年も前に思い知った。
共に警察官を志した友の死とそれに関するさまざまを、封じた心の底から浮かび上がって来そうになる記憶を、瞼を伏せて押し込める。
「ウォルターさま?」
こちらの顔色を目敏く読む老メイドには、いつもと変わらぬ笑顔を見せる。
「今日は出掛けるから、たまにはのんびりしててねぇ」
「かしこまりました」
そう返事しながらも庭や家の掃除に一日を費やすのだろう彼女に食事の礼を伝え、星ヶ丘の家を出る。
今は異国の地で悠々自適の生活を送っている祖母がほとんど無償で貸してくれた寝子島の屋敷は、今は一介の教師である己ひとりで管理するには広すぎる。祖母の命を受けて遠い日本までついてきてくれた彼女の存在はありがたいと言えばありがたいのだが、
(齢が齢だしねぇ)
日本の夏は暑い。老齢の彼女には堪えるだろう。出来るならば、己が屋敷を留守にすることで彼女に少しでも働く手を緩めて欲しい。
一歩外に出た途端、朝もまだ早いというのに照りつける真夏の太陽の厳しさに瞳を細める。あっと言う間に額に滲む汗を拭いつつ、夏休みにはしゃいで陽炎の立つ道を駆けて行く子どもたちの背を追う。
出掛けるとは言ったものの、当てがあるわけではない。
(図書館か、喫茶店か)
旧市街商店街にある居酒屋は流石にまだ開いてはいまい。
夏の朝に歩き出しながら、真っ青な空を仰ぐ。
(何処へ行こうかなぁ)
取り立てて考えるでもなくのんびりとした足取りで数歩、夏の熱を帯びる地面を踏んだところで、──地面が、失せた。
ふ、と足が沈み込む。体勢を立て直す暇もなく身体が落ちる。自由落下する己の身体に息を呑みそうになる歯を食いしばる。状況把握に努めて周囲に視線を巡らせ、気づいた。落ちるにしては速度が遅すぎる。
夜色の濃紺した周囲に漂うは、水色の綿菓子めいた雲と無数に煌めく遥かな星雲。伸ばした指先に掴む空気は夏とも思えず冷たく、ともすれば水に沈んでゆくような浮遊感をも思わせる。
(……夢、かなぁ?)
けれどつい先ほどまでは確かな現実のうちに居た。
夜に落ちて行くような視界の端、光が見えた。宙に舞う幾冊もの書籍と、色とりどりの淡い光を放つ小瓶と、──それから、
「稲積?」
夜の底へと沈んで行く、ひとりの少女。
呟いた声も届かぬ夜の底に向け、思わず宙を蹴る。加速する身体のまま、
「稲積!」
『生徒』の名を呼ぶ。
「ウォルター先生……?」
落ちるばかりだった少女が、
稲積 柚春が驚いたように身体をもがかせた。近づく己を菫色の瞳に映し、救われたように微笑む柚春に向けて腕を伸ばす。落ちる少女を留めるように指と指を絡めて手を繋いだ、その瞬間。
柚春の周囲に漂っていた小瓶から花咲くような色が溢れ出た。光は花びらをかたち作り、ふわりと周囲に躍る。
「ここが何処かは分からないけれど、……稲積に会えて良かった」
何処か知らぬ場所へと沈んで行く『生徒』の手を取ることが出来て良かった。少なくとも、知らぬ間に『生徒』が行方知れずになることは避けられる。
束の間かも知れぬとは言え、共に歩いて行けるのは幸いなことに違いない。
落下の止まらぬ『生徒』の身を護るように、その頭を胸に抱え込んだとき、彼女を護るように彼女の肩にぴたりと寄り添っていた人形が目に入った。
(……『ぬい活』)
柚春が楽し気に行っている『ぬい活』の主役であるカプセルギアが、ふと微笑んだようにも不機嫌に瞳を細めたようにも見えて思わず首を捻るも、とにかく今なすべきことは、
「帰らなくちゃねぇ、稲積」
現実世界への帰還であることだけは、確かだ。
こんにちは。今回はプライベートシナリオのお届けです。
稲積 柚春さん、大変お待たせいたしました! このたびはお待ちくださいまして、ご依頼くださいましてまことにありがとうございます。
今回は、ウォルター先生と稲積さん、それからворさんの物語となっております。
神魂の影響で不思議な世界『夜と本と星の世界』に迷い込んでしまっていますが、寝子島に戻ったあとも、ウォルター先生は不思議世界での出来事はきちんと覚えています。
夜と本と星の世界
ゆっくりと落下してゆく三人の周りにはいくつもの本が現れます。
触れると、三人のうちの誰かの記憶やありえたかもしれない世界線が再現される仕組みです。
それは稲積さんの転校間際の友人との別れの記憶であったり、ворさんがひととして『緑林 透破』として存在している世界の一場面であったり、ウォルター先生が頑なに語ろうとしない過去の記憶であったりするかもしれません。
手を繋いだふたりの周りには、時折小瓶から零れた香水が光る花びらとなってふわふわと舞ったり、時にぶわっと乱舞したりします。どうやらランダムに三人のうちの誰かの感情が色やかたち、香りとなって現れるようです。
寝子島への帰還条件
水に沈んでゆくようにゆっくりとした速度でたくさんの本が散らばる『底』へと辿り着けば、淡く光る『門』が目に留まります。開いてゆく門扉の向こうからは、真夏の太陽の気配。どうやら寝子島のどこかへ繋がっている様子──
帰還するための『門』がある『夜の底』へ沈み切ってしまうまでは、とても時間がかかります。手を離してしまえばはぐれてしまうかもしれません。
お望みであればもちろん、帰還後のみなさまのことも描けましたらと思っております。
ウォルター先生はいろんなことに驚きながらも、自分のことはさて置いて稲積さんを気遣うのではないかと思います。
せっかくのプライベートシナリオです、どうぞご自由にアクションをお書きください。
それでは、お越しをお待ちしております!