怪物｜リアクション

怪物

「よう」

　病室を訪れた紘之助は、作務衣に下駄履きという、おおよそ見舞いには似つかわしくない姿だった。
「師匠（せんせい）……！」
　本当ならベッドのうえに正座して迎えたかったところだろうが、いまの吐前亀二郎（はんざき・かめじろう）には無理な相談だった。亀二郎は左腕を骨折していた。肩も包帯で固定されている。顔にも目立つ擦り傷があった。
　動くな動くなケガ人は、と言いながら紘之助は椅子を引いて腰をおろした。
　病室は個室だった。結構なご身分でと言いたいところだが、実際は吐前が重要事件の被害者であり目撃者であるためだろう。
「派手にやられたな、亀」
「面目ありません。庵流の名折れですよ、自分もなまっていたようで……お恥ずかしいこってす……はいー」
　口調こそ冗談めかしているものの、白く長い眉毛に隠された亀二郎の目には、悔しさが熾火となってやどっていた。あえてそれに気づかぬような口調で、
「見舞いだぜ」
　紘之助はベッドサイドのテーブルに、果物の入ったカゴを置く。ふわっと甘い香りがたった。
「はは、桃が入ってる。いいですねえ、私好きなんですー」
「明後日あたりが熟れごろだな、もちっと待ったほうがうめえぞ」
　笑いつつも紘之助は骨接ぎのプロとして、亀二郎の負傷は全治四ヶ月とふんでいる。肋（あばら）も数本やられているだろう。
　なまったなどと自嘲するが、定年間際とはいえ亀二郎は現役の刑事である。紘之助自身、先日手合わせしたばかりなので力量は知っている。たとえ素手であろうと一杯引っかけていようと、包丁を振り回す暴漢や空手家くずれのヤクザ者なら赤子の手をひねるように無力化できるだけの実力があるはずだ。
　その亀公がここまでやられるなんて、本当に人間かよ。
　ぞくりとした思いが紘之助のうなじを走った。
　恐怖にも似た戦慄だったが、けっして不快ではなかった。むしろ、宝探しでもしているような昂（たか）ぶりをおぼえている。
　軽く相手の風体を聞きだした。
　丸太みたいな腕と足の巨漢だということ。
　あきらかに小さすぎるサイズのスーツ上下だったということ。
　そして、ネズミそっくりの顔をしていたということ。比喩ではなく、まるでゴム製のマスクをかぶったかのような。
　――昨日今日で尋常じゃねェケガ食ったやつに、あんまり長話するのはアレだな。
　じゃあ行くぜと亀二郎は席を立った。
「安静にな」
　声をかけて病室を後にする。滞在時間はほんの数分だっただろう。
「お師匠さん、また来てくださいよう」
　紘之助は軽く右手をあげて返答のかわりとした。
　リノリウムの廊下を歩く。病院は消毒液とゴムの臭いがした。
　紘之助が振り返らなかったのは、いまの自分の顔を亀二郎に見せまいとしたからだ。
　羅刹のような表情にちがいない。
　憤怒のきわみにあるようでいて、呵々大笑しているような。
　喧嘩をするのが好きだった。
　相手は強ければ強いほど、多ければ多いほどよかった。
　ダチは多いほうだったし、大勢でバカやるのも嫌いじゃなかったが、バカ笑いをしているときもどっかで空虚さを感じていたのをおぼえている。
　心臓を抉り出してそいつでそのまま殴り合うような、命を晒しているとき、心から安心できるのはそんときだけだったな――。
　エレベーターのドアが開いた。
　正面の鏡にはまた黒い闇があらわれている。闇に潜む目も。まばたきもせずこちらを凝視している。
　言うなればこいつは、俺を殺そうとする怪物か。
「ハ」
　こらえきれなくなり紘之助は、無人のエレベーター内で笑い声をあげていた。
　こんな皺皺のツラになっても一皮剥けば昔のままか。
『お前ェはな――危なっかしいトコがあるよな』
　あの日、紘之助が孫に告げた言葉だ。
　だがこんなんじゃどっちが『危なっかしいトコがある』んだかわかったもんじゃねえな。