新居の一室を占拠したままだった未開封の段ボールも大分片付いた。
　梱包を解くにもスケジュールを埋めに埋め尽くしていた写真撮影の仕事のためにままならず、ゲンナリしていたところを助けてくれたのが、新居からほど近い場所に住む佐和崎 紗月だった。
(ここに決めた理由のひとつでもあるけど)
　女子高生グラドルから女子大生グラドルに進化したとは言え、学生の身である初瀬川 理緒にとってもお手頃価格で、収納がたっぷりあって。更に恋人の家に近いともなれば、即決しない理由もない。
(一緒に大学に通えるもんね)
　高校生活を過ごした桜花寮も楽しかったけれど、新居には紗月が自由に泊まることができる。
「理緒ちゃん」
　衣服の詰まった段ボール箱を前に知らずニヤニヤしていた理緒の傍ら、隣の部屋に行っていた紗月がふと立った。
「どうしたの？」
「ん？」
「楽しそう」
　ちょこんと隣にしゃがみこむ恋人があんまり可愛くて、その滑らかな頬に小さくキスを贈る。
「そりゃもう、新居だし、紗月も居るし」
　ついでにふわふわした身体をぎゅっと抱きしめて、もうひと働きする元気も貰う。
　くすくす笑う紗月と一緒に、この土日の前にはうんざりゲンナリしていた山積みの衣装入り段ボールの最後の一箱を片付ける。使うものはハンガーに掛けてクローゼットに、まだ使わないものは衣装ケースに。
(今年は端っから色々変化が訪れたよね)
　クローゼットの前に立ちながら、理緒は小さく笑う。
(大学にはまさか合格したし)
　それ以上にまさかな出来事もあった。
(紗月がグラドルデビューしちゃうなんてね)
　思いがけぬアクシデントが原因ではあったものの、結果として紗月の水着姿は青年誌に掲載される。発売は五月で、もう少し先ではあるけれど、きっと評判は悪くないはずだ。否、良いに決まっている。
(だって紗月だもんね！)
　恋人の欲目もあるにはある。けれどそれではもちろん成り立たない世界であることも肌で理解している。それでも思ってしまうのだ。
(五月号は売れるわよー)
　またもニヤニヤしているところを衣服を抱えて部屋に入って来た紗月に見られ、理緒は慌てた。
「ね、お散歩がてらお花見しない？　お弁当も買ってお昼にしよう！」
　なんだかつられたようににこにこする紗月と一緒に部屋を出て、元々暮らしていた桜花寮からそう遠くないとはいえまだちょっと慣れない新居周辺を歩いてみる。
　今の時期、寝子島街道にもキャットロードにも、どこもかしこもに桜が乱れ咲いている。キャットロードのお弁当屋でこの時期限定の花見弁当とお茶を買い、少し歩けば桜の花に包まれた小さな公園を見つけることが出来た。
　桜の傍に置かれたベンチにふたりで腰掛け、お昼ごはんにする。
　桜でんぶのおにぎり、カニカマと紫蘇入りの出汁巻き卵、蓮根や椎茸の炊き合わせ。お花見がてらどこか昔ながらのお弁当を食べてお腹を満たして、
「それじゃあ、もうひとがんばりだね」
　一緒に部屋に戻ろうか、と立ち上がりかける紗月の肘を、
「ね、もうちょっと」
　理緒が引いた。引き戻されて、ぽすん、とベンチに座り直す紗月の肩に理緒は甘える仕草で寄りかかる。
「理緒ちゃん」
「平気へいき」
　人気グラドルが一般人、しかも女性とのデートに見られはしまいかと人目を気にする紗月に、理緒はくすくすと笑う。
「だってほら、こんなにぽかぽかだもん」
　理由になっていない理由を述べつつ、桜を仰ぐ理緒につられ、紗月も頭上の薄紅を見上げる。ふわふわと気まぐれに舞う桜と一緒に、ぽかぽかで優しい日差しが身体をふんわり包み込んでいる。
「うん、……ぽかぽかだね……」
　桜越しのおひさまの心地よさに、傍らでうとうとしはじめる体温の安心感に、紗月も思わず瞼を伏せて──

「……ん？」
　身体を包み込む、日差しにはありえないひんやりとしながらもどこか優しい感覚に、紗月は瞼を開いた。
　いつのまにか眠ってしまっていたらしい。それは理解している。それは分かるけれど、目の前に広がる碧い世界は何だろう。
　ぺたりと座り込んだ地面には時折雪のようにふわりと舞う白砂。ところどころには黒い岩が転がっていて、そこに遊ぶ小さな魚たち。遠くには薄紅の花を花冠かドレスのように纏った白い石の町も見えている。
「っ……」
　ぎくりと口元に手をやるけれど、不思議と息は出来ている。
(何故水中に？)
　怪訝に思いはするものの、恐怖はない。息の出来る不思議な水中世界には、いつだったか訪れたことがある。そのときも、何の危険もなかった。
　そのときも、理緒が一緒だった。
　傍らですうすうと心地よさそうな寝息を立てる理緒の姿を確かめ、紗月は胸を撫でおろす。
(大丈夫……)
　此処が何処でも、理緒とふたりなら。
「理緒ちゃん」
　こちらに肩を預けきっている理緒を抱き寄せる格好で、耳元に呼びかける。ぱちり、と瞼を開いた理緒は、迷うことなく紗月を真っすぐに見て笑った。
「おはよ、紗月」
「おはよう、理緒ちゃん」
　まずは隣に紗月がいることを確かめ、理緒は周囲に頭を巡らせる。そうして自分と紗月の衣服が変わっていないことも確かめる。

「夢の中？」
「神魂現象かも？」
　首を捻る理緒に応じて口にして、紗月もまた首を傾げた。
「わからないけど……」
「うん、わっかんない」
　ケロリとした調子で言って、理緒は水中に息が出来ることを確かめるかのように両手を大きく広げて深呼吸をする。軽い身のこなしで立ち上がり、座り込んだままの紗月に手を差し伸べる。
「ま、精々楽しむが吉！　ってね！」
　突然の状況に放り込まれてもすぐに順応し、すっかり楽しむ気満々の理緒を見上げ、紗月は小さく頷いた。
(そうよね)
　何が原因なのかも分からないけれど、
(こんな幻想的な雰囲気)
　その中でふたりで過ごすのも悪くはない。
　理緒の手を取り立ち上がる。ふたりで手を繋いで、まず目指すは遠目に見える花と石の町。雪原にも見える水底をしばらく歩いて行けば、碧い世界に佇む町はその色をますます鮮やかにした。
「桜……」
「桜だね」
　町を彩る桜を仰ぎ、ふたりは顔を見合わせる。
　碧に包まれた白と桜のコントラストの美しさに、紗月は思わず足を止めた。傍らの理緒も立ち止まり、並んで同じ景色を眺めてくれる。
(……うん)
　ずっと見ていたいような世界の美しさに目を細めながらも、紗月は実感する。この美しさは、傍らに理緒が居てくれるからだ。
(理緒ちゃんがいなければ)
　きっと、どんな風景も色を失くしてしまう。
　唇から零れた吐息が、銀色の泡になって水中に踊った。ふわふわと漂う泡に惹かれたか、桜の梢に遊んでいた小さな魚たちがひらひらと近寄って来る。町に、彼ら以外の住人は見受けられなかった。耳を澄ましても、聞こえるのは互いの呼吸ばかり。魚たちの鰭が水を掻く微かな音と、幾千の桜が砂の上にはらはらと散る音ばかり。
「よっ、と」
　不意に理緒が水中に跳び上がった。悪戯っぽい顔で、紗月の手を引く。
　理緒の力に身を任せれば、紗月の身体は容易に水に舞い上がった。
「不思議」
「不思議だよね」
　くすくすと笑いながら、ふたりは手を繋いだまま優しい水の流れに揺蕩う。ふわりふわりと浮かんだまま、ふわりふわりと舞う桜の花びらを眺める。
　くるり、理緒が身を翻す。水中で大仰なお辞儀をしてみせる理緒に合わせ、紗月は理緒に身を寄せた。魚たちと共に、桜の花びらと共に、くるくるくるり、舞踏会じみて舞う。
　水中にきつく抱き合って身を投げれば、ふわり、綿よりも柔らかな力がその場に留めてくれた。額を寄せ合い、瞳を絡ませてくすくす笑いあい、キスを交わす。唇を重ねたまま、ふたりきりで水中を漂う。
(このまま、ずっと)
　ふたりで溶け合ってしまいたい。
　睫毛が触れあうほどに近く紗月と見つめ合いながら、理緒は小さく願った。
「理緒、ちゃん」
　紗月は笑う。理緒を強く抱きしめる。
(ずっとずっと、)
　理緒を感じていたかった。これが例え夢であったとしても、
(ううん)
　夢の中だからこそ。
　だってきっと、目が覚めたとき、傍らには理緒がいる。変わらぬ笑顔で見つめてくれている。そう信じているからこそ──