【お花見】花の盛りの寝子島で｜リアクション

【お花見】花の盛りの寝子島で

　いつも身に付けていたピアスを外す。
　漆黒のオニキスがはめられたラウンドフレームピアスを柔らかな布と専用の消毒液で丁寧に拭き上げ、臙脂の布を張ったケースに仕舞う。
(私ね、高校を卒業したの)
　春からは木天蓼大学の寝子島キャンパスに通う。
　高校生活を共にしたピアスに指先でそっと触れ、早坂恩はピアスの宝石と同じ色した瞳を和らげる。大学生活が始まる前に、どうしてもやらなくてはいけないことがひとつ、あった。

(大切に預かっていたこれ、お返ししなきゃね)
　ぱたん、とケースの蓋を閉める。ケースを両手に包み込み、祈るような仕草で瞼を伏せれば、
　──高校を、途中でやめてしまってね
　ピアスをくれた男性の病みやつれた横顔が浮かんだ。亡くなって何年が経とうとも思い出せる、窓からの光に染め上げられた静かで寂し気な笑顔。頼むよ、と渡されたオニキスのピアス。
　──これを身につけて学校に通ってほしい
　そうやって乞うことで、せめて高校を卒業するまでの生きる意味を与えようとしてくれた優しいひと。
(役目はとうとう終わってしまったわね)
　高校生活を見守っていてくれた大切なピアスを抱きしめる。
(……ね、)
　ケースを胸に、彼に語りかけてみる。
(ちゃんと高校を卒業できたのよ、私)
　たくさん楽しいことを経験することができた。
　思い出だっていっぱいできた。
　あのひとから託されたピアスとともに、あのひとが経験できなかった高校生活を送ることが出来た。未来に進む力も蓄えることができた。
(だからそろそろあなたも)
　机の上の携帯電話がメール着信を知らせて小さく鳴った。光を灯す画面に示されるのは、ひとりの女性の──あのひとの恋人の名。
　メールに返信を返し、春物のコートを羽織る。ポケットにそっとケースを滑り込ませ、軽く叩く。
(彼女のもとに帰ってね)
　居候させてもらっている叔父の家を出た途端、どこかの桜の花びらを纏った春風が吹き寄せた。
　三つ編みにした栗色の髪がふわりと風に舞う。額に揺れる髪をかき上げ、耳に掛けようとして、いつもなら指先に触れるピアスがないことにほんの少し戸惑った。小さく小さく、微笑んでみる。
　──あなたは彼のピアスを……
　『彼女』と会わせてくれたのも、彼から託されたピアスだった。
(驚いたわよ)
　彼が亡くなるまで共に過ごした病室で、社会人だった彼からたくさんの話を聞いた。彼が恋人とともに空き地に埋めたというタイムカプセルを、彼と恋人が掘り起こす予定だった日に訪ねてみれば、そこはお店に変わってしまっていて、
　──タイムカプセルは店ができる前に私が掘り出しておきました
　そこに、彼と交わした約束の日まではと働いていた彼女がいた。彼のお気に入りだったピアスをつけ、約束の日に約束の場所を訪れた恩に、とびきりの笑顔をくれた。
　出会えた彼女とは、時折連絡を取るようにしていた。
(あなたにこれを返すには、とってもいい日よね)
　桜と春陽にあたたかく彩られた道を辿る。緩い坂道の果て、彼の眠る桜台墓地がある。
「早坂さん」
　桜の花咲く墓地の入口で待ってくれていた彼女と共、彼のお墓に参る。
(お墓に参るのは久しぶりね)
　並んで手を合わせて後、恩はポケットからピアスケースを取り出した。
「約束だったの」
　恩が差し出したケースを両手で受け取りながら彼女は小さく頷き、バッグの中から同じピアスの入ったケースを取り出した。
「これでやっと、揃ったわ」
　朗らかに笑う恩に、彼女は深く頭を下げる。ありがとう、と繰り返す彼女に、恩は首を横に振った。
「こちらこそ」
「ありがと？」
　笑う恩の瞳が、彼女の傍から離れて恩のコートの裾を掴む三歳ほどの幼児の姿にますます細くなる。
「ええ、私のほうこそ。──ありがとう」
　彼と彼女の間には、小さな小さな子どもがいた。笑顔が彼とよく似た子の頭をふうわりと撫で、恩はありがとうを繰り返す。
(おかえりなさい、今度は彼女さん……いえ、奥さんとお子さんと一緒に暮らしてちょうだい)
　晴れ渡って澄んだ空に、未来を祝福するに似て桜が舞っている。