庵流、伊織源一｜リアクション

庵流、伊織源一

　鳶（とび）が飛ぶ。
　滑翔する。
　羽ばたきは最小、両翼をいっぱいに広げ水平にして、風でできた目に見えぬ丘をなだらかに滑りゆく。
　猛禽類の丸い眼で、彼は何を見ているか。
　どこへ往こうというのか。

　透き通る鳴き声を聞いた気がして、伊織源一は寝床から身を起こした。
　朝。
　今朝も目覚ましは必要なかった。布団から出て窓を開け放つ。
　空を見上げた。
　快晴、煙のような雲がわずかに散るだけだった。
　静かに早朝の大気を吸い込む。三月も終わりに差しかかっているというのになお、磨り硝子のように冷ややかなものが空気のなかに混じっていた。
　目を閉じれば、胸の奥に熾火のごとくちりちりと燃えるものが残っているような気がしてならない。あるいは緊張の残滓か。受験前のあの日に感じていたような。
　窓は閉めない。
　顔を洗って居間に向かうと、既に朝餉（あさげ）の準備が整っていた。
　……いない。
　半ば予想していたというのに、それでも源一は卓の正面、祖父の不在を意識せずにはいられなかった。
　発芽玄米が二割、麦が一割入った白米をよそう。黒い椀はごつごつと無骨で、分厚いつくりの唐津焼だ。ずっしりと重い。軽くよそっても飯は、通常の茶碗の倍は入るだろう。高台の一部がわずかに欠けているが、指に当たる感触を含めて源一は愛用している。箸はヒノキを荒削りしたもので、左右がやや不均衡である。
　皿でかすかな湯気をあげているのは目玉焼き、それと塩引きの鮭だった。小皿には水菜と油揚げの煮びたしが少々、味噌汁は昨夜の残りの赤出汁だ。
　両手を合わせ箸を取るより先に、源一は紙の小片に気がついた。小皿を文鎮がわりにして置かれていたものだ。
　書置きだった。やはり祖父は出かけたらしい。
　どこへ行くとは書かれていなかった。いつ戻るとも。
　そもそも文字はわずか四つだけなのだ。
『先に出る』
　無意識のうちに顎に触れると砂鉄のような、生えたての髭の感触があった。

　食事を終えると胴着と袴に更衣し、源一は稽古場に入った。
　場内は肌寒く、静謐にして厳粛、埃の積もる音すら聞こえるようだ。
　木刀を握り、なんとなしに稽古場をゆっくりと、噛み締めるように一回りする。
　足袋は履かずすり足、足裏が床板をこする感覚が冷たくも快かった。
　果てしなく長い時間を過ごした稽古場だ。ここで育った自分にとっては、この空間もまた、自分の親と言っていいのかもしれない。
　どれだけ多くの汗を、床や壁に吸わせてきたことだろう。
　それを言うなら血もだ。あるいは涙も。
　板張りのごくわずかな凹みも、逆に小さな隆起のひとつひとつも、すべて源一の皮膚は記憶していた。目を閉じていようと、そればかりか両手を背に縛られていようと、壁にぶつかることなく正確に何周もできることだろう。
　ぐるり巡り終えると、源一は板の間の中央に立った。
　紫電一閃、海原をふたつに割るほどのひと太刀を落とす。
　悪くない。
　いや、状態は最良に近い。
　始めるか。
　体に沁みついた形を、ひとつひとつ稽古する。
　寸毫の狂いもなく正確に、だが実戦さながらに荒々しく。
　表太刀の一本目『被衣起（かづきおこし）』。
　仙狸館に伝えられる、とりわけ庵流剣術の骨子である『一調子の太刀』。
　『魔の太刀』を利用した秘奥。
　かつて初めて祖父とこれを稽古したときは、その起こりの消え方に全く反応できなかったものだ。
　あの時分ほど離れてはいないはずだ。祖父の背中と、現在の俺の間は。

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