おとぎばなしに君の名を｜リアクション

おとぎばなしに君の名を

　ミルク運搬の仕事を奪われた、と古びた椅子で祖父が肩を落としている。
　その足元に伏せていた老犬が垂れた耳をぱたりと動かし、のそりと立ち上がった。
「パトラッシュ」
　こちらに近づいて来た老犬の顎を撫で、八神修はそっと微笑みかける。
(『フランダースの犬』……)
　テーブルの上に置かれた煤けたランプの火が揺らぐ。
(努力が、誠実さが報われるとは限らない)
　老犬を撫でた手を祖父の背に伸ばす。老いた筋肉が軋む背に、修は世界の理不尽と不公平を思った。
(変えたい)
　せめて、この場だけでも。
　たとえ束の間の夢であっても、重なる不幸に絶望して凍え死ぬネロ・ダースの運命を覆して見せよう。
「おじいさん」
　ネロは決意の声で祖父に告げる。
「俺に任せて」
　運ぶミルクがなくとも、まだ荷車が残っている。これを最初の資本にしよう。

　祖父の持つ薬草の知識をもとに、まずは薬を作る。定期的に薬を届けることと引き換えに、村の馬喰から老いた馬を一頭借りる。
　始めるのは村の作物を町に運び売る代行業。
　最初は隣家のおばあさんの作る人参とキャベツ、次の日は森の樵が切り出した薪と木材。手間賃を安く設定すれば、代行業に販売を依頼する村人は日に日に増えた。
「お安くしておきますよ」
　亜麻色の髪の少年が収穫したその日に町へと運んでくる新鮮な野菜は、町の人々に歓迎された。
(中間マージンがほぼないから購入者にも得だ)
　愛想よく手際よく村の野菜を売りさばきながら、修は思考する。
(商社の基本だ)
　村と町との行き来に慣れる頃には、行きは荷車満載の野菜、帰りは町で仕入れた村に必要なものを乗せて来るようになった。
(最初は小規模でいい)
　一歩一歩、確実に。小さな村で始めた小さな事業は規模を拡大してゆく。最初は町ひとつ、一か月先にはもうひとつ別の町、二か月先にはまたひとつ別の町を巡るようになった。町々の流通を請け負う頃には、町の住人の信頼を得た。それと共にある程度の資金も集まった。
(……よし)
　生活基盤が安定した頃を見計らい、借りていた馬は購入するに至った。修理しつつ使っていた古い荷車は馬車へと新調した。
　物語の中でネロを窮地に追い込む風車火事事件が起こるも、村を離れていることの多い彼に濡れ衣がかかることはなかった。
「今晩は、コゼツさん」
　大家である村一番のお金持ち、コゼツ家に家賃を払いに向かう。ここ数か月、家賃の滞納をしていないお陰もあってか、ネロに対するコゼツ家の待遇は良かった。
「おお、ネロ君」
「そこの道で財布を拾ったのですが、これはコゼツさんのものではありませんか」
　厳めしい顔をしたコゼツ家主人は顔を緩める。大きく頷くコゼツに財布を渡し、ついでに世話になっているお礼にと町で流行している帽子と時計を贈る。
「ネロ！」
「アロア」
　父を押しのけるようにして飛び出して来たアロアは、修をこの世界に送り込んだ女悪魔の仕業であるのか、修が想いを寄せる七夜あおいの姿をしていた。
「大丈夫？　元気にしている？」
「大丈夫」
　祖父は、ひと月前に死んだ。睫毛を伏せるアロアに、ネロは気丈に笑んでみせる。
「俺、頑張るよ」

　大聖堂のルーベンス作品には厚いカーテンが引かれている。
　パトラッシュが待ってくれている大聖堂の入り口を見遣り、ネロは静かに笑んだ。傍らに立つアロアの手を取る。
　見張りの衛士に作品を鑑賞するための銀貨を支払う。
　カーテンが取り除かれる。物語の中ではネロが死の間際に見たはずのルーベンスの絵が、今ばかりはネロとアロアの希望に輝く瞳の前に現れる。