ねこでんが寝子島大橋に差し掛かる。
「……ん？」
　眠気を誘う電車の揺れと昼下がりの太陽に疲れた身体をうつらうつらとさせていた水谷 真優理は、聞こえて来た賑やかな音楽つきのアナウンスに黒い瞳をぱちりと開いた。耳を傾けてみれば、今日は寝子島最大の音楽祭、ネコフェス開催日だということらしい。
(もうそんな季節か)
　四ヵ所用意されているいう会場を確認しながら、網棚に置いた旅行鞄を見仰ぐ。勤務先であるホテル『ステッラ・デッラ・コリーナ』の研修で東京に数日滞在して、今日はその帰り。明日も仕事ではあるけれど、今日の午後は空いている。
(絢ちゃんは……)
　すぐに思い浮かんだのは、従妹の横顔。眩しい青空と輝く入道雲に押し潰されそうになりながら、母の墓標を前に微笑んでいた従妹の白い頬。
(……何年ぶりだろう、人前で泣いたのは)
　哀しいはずなのに、本当は声を上げて泣きたいはずなのに、涙を流せず微笑むばかりの従妹の代わりに泣いたあの夕立ちの日を思い出す。
　従妹を誘おうとして思いとどまる。きっと友達とライブを楽しんでいるところだろう。
(思いっきり楽しんでね、絢ちゃん)
　父の裏切りで心に負わされた傷の痛みが、めいっぱい楽しむことで少しでも和らぐといい。真優理はそれを心から願う。
　沈みそうになる心を追いやるように頭を振る。
(こういう日は)
　適度に楽しむに限る。
　従妹とふたりで暮らすシーサイドタウンのマンションに帰る予定を変更する。数日に及ぶ研修という名の仕事で身体は疲労している。寝子ヶ浜海岸のメインステージではしゃぐような気分ではない。おひとり様で楽しむのなら、
(温泉かな)
　寝子島大橋を渡った先の寝子島駅で下車する。向かう先は寝子温泉。
(……年取ったのかな、私)
　歩くのに邪魔な荷物を駅のコインロッカーに放り込みながら、アラサー女子はちらりと苦笑してみたり。

　ショルダーバッグひとつの身軽な姿となり、参道商店街を過ぎる。降り注ぐ蝉しぐれに肩をすくめ、トンネル内に僅かな涼を求める。盛夏の上り坂を歩く気には到底なれず登山道入口駅から一駅、砂掛谷駅まで電車に乗る。
「あっつ」
　駅から一歩出た途端に照り付けて来る太陽の眩しさに思わず手庇を作りつつ、のんびりと坂道を下ればそこは寝子温泉。会場のホテルについたところで、
(……さて、と)
　特設会場の足湯と駐車場を提供しているホテルを見比べる。汗みずくの身体に辟易しつつ、日帰り入浴歓迎の看板を目にすれば心はすぐに決まった。会場から聞こえる三味線の音に背を向け、ホテルのカウンターに足を向ける。
　ホテルの屋上露天風呂で汗と旅塵を流していると、栗色の髪に碧眼、外国人旅行者と思しき二十歳ほどの女性が入って来た。目が合ったので目礼を返し、先に上る。浴衣に着替え脱衣所の椅子に掛け、全開の扇風機の前で涼んでいるうち、先ほどの女性も上がって来た。ちらりと見ただけでもわかる鍛え上げられた肢体に、手慣れた様子で浴衣を纏う。
(……助けは必要なかったわね)
　慣れないようであればお節介しようと思っていた真優理はくすりと笑みを零した。
「ご旅行ですか？」
「そんなところよ」
　声を掛けると、流暢な日本語が返って来た。
「今日は随分賑やかね」
「ああ、ネコフェス……寝子島音楽祭です」
　真優理の答えに、ほしびとであるティオレ・ユリウェイスは小さく頷く。
「ホテルの駐車場が会場で、……足湯つきの野外宴会場、らしいです」
　黒い瞳を柔和に細める彼女は、寝子島の住人であるらしい。
　浴衣の帯を結い、羽織の袖に手を通す。寝子島の住人たちとは少々容貌が違いはすれど、どうやら外国の人間程度に見えるらしいことはこの島にふとしたはずみで幾度か飛ばされるうちに理解している。

(この島に来るとどうしても運気が下がる思いがする、が……)
　都度、星幽塔の住人であっても不可思議に思える出来事に巻き込まれ、そう思うようになった。それでも何度もこちらに飛ばされれば、島での過ごし方も楽しみ方もそれなりに判って来ようというもの。
　楽しんだ者勝ちというものだろうと湯治を決め込んでいたが、どうやら今回、己の運気はそれほど低下していないのかもしれない。
(何だか知らないけど、盛り上がっているのはいいことだ)
　旅は道連れ、とばかり行き会った女性とホテルの揃いの浴衣姿で野外宴会場に向かう。近づくにつれ、聞き慣れぬ弦楽器の旋律と歌声が響いてきた。
　竹で組まれた小さな舞台には、座布団を敷いて三味線の老女と着物姿の妙齢の女性。軽妙ながらどこか哀切帯びた声で歌われるは、一夜にして三夜湖に消えた城とその一族の物語。
「……わ、いい酒」
　連れの女性、真優理は民謡よりも会場をぐるりと囲む屋台の酒が気になるらしい。ふわりと漂う甘い酒の匂いに、ティオレはかたちの良い鼻の頭にちょっと皺を寄せた。
「お酒は苦手？」
「飲めないよ」
　屋台に並ぶ酒瓶に目を輝かせる真優理に、ティオレはひらひらと軽く手を振る。真優理が利き酒セットを頼む間に、隣の焼き鳥屋でウーロン茶と焼き鳥セットを買い込む。熊じみた大男な店員が焼く炭焼きの香ばしい香りと塩加減が絶妙な焼き鳥は、思いの外美味かった。
「真優理」
「はーい？」
　気にいった焼き鳥の串のお代わりを求めるついで、酒の美味しさに至極ご機嫌な真優理に聞けば、
「『焼き鳥　ハナ』ね」
　参道商店街から出張してきたらしい店の名を教えてくれた。
　数種類の酒を少しずつ、けれど存分に楽しんでいるらしい真優理は、年齢層の高い周囲になんだか少し得意そうでもあり、嬉しそうでもあり。
「あ、そうだ。足湯！　足湯に入ろう」
　ふわふわと楽しそうな真優理と共に、浴衣の裾を摘まんで足湯に浸かる。竹の長椅子の不思議な匂いに加え、立ち昇る温泉の湯気、小さな舞台から聞こえてくる渋い歌声。
「この歌は？」
「演歌ね。私はまだ若いからあんまり分からないけど」
　ほの紅い頬で笑う真優理にそうかと微笑み、ティオレは人の愛しさを謳いあげる演歌に耳を傾ける。
　見た目こそ二十歳前後ではあるが呪いを受けて九百年近くを生きるティオレに、聞こえてくる演歌はひどく心に染みた。
「ああ、」
　歌が心に響くまま、低くしみじみと嘆息する。
「……しみるねぇ」
　伏せた瞼に蘇るのは、色々と戻りつつある過去の記憶。だが今は、
(まあ、そんなことはどうでもいい)
　現れては感情を乱そうとする記憶をただひとことで頭の外に追いやり、ティオレは引き続き演歌に耳を傾ける。懐かしささえ覚える旋律に、静かに、時に力強く訴えかけてくる歌詞。恋を唄い、旅と故郷を詩い、人生を謳う。
「歌は、いいねぇ」
「あら」
　焼き鳥のお代わりを届けに来た割烹着姿の老女が明るい声を上げた。
「あらあら、そんなにお若いのに」
「見た目より年を取っているよ」
　『ハナ』の女将に静かに笑い、ティオレは焼き鳥とウーロン茶を受け取る。酒は呑めないが、この島で味を知ったウーロン茶はこの島一番のお気に入り。
「歌ってみる？」
　ほろ酔いの顔で真優理が首を傾げた。
「いや、……」
「まあ！　いいわねぇ、聞かせて頂戴」
　戸惑うティオレの手を女将が握った。かと思えば、飛び入り参加の申し込みして来るわねと軽い足取りで舞台袖へ向かってしまう。
「……参った」
「大丈夫、一緒に歌ってあげるわ」
　困ったようにも楽しそうにも見えるティオレの手を真優理は取る。練習しましょう、と真優理が歌い始めたのは、別れた恋人と再会する歌。帰らない青春を唄い、再び別れる歌。
　聞かされたまま、ティオレはこうだろうかと口ずさんでみる。踊り子稼業も生活の糧としている本業盗賊なティオレの音感と物覚えの良さに真優理は舌を巻いた。
　わくわくと戻って来た女将に連れられて舞台に上れば、浴衣姿の美女ふたりにやんやの喝采が浴びせられた。マイクを片手、真優理はホテルコンシェルジュの職業病にも近い柔らかな笑みを酔いの残る口元に湛える。
「『メリケン橋』を歌います」