寝子島呪刀奇譚｜リアクション

寝子島呪刀奇譚

　伊織紘之助は、何度目かの寝返りを打った。
（……どうも寝付けねえなァ）
　床についたのは、既に何時間も前のこと。
　寝付けないほど暑くはないし、長々昼寝をしたわけでもないのに、目も頭もひどく冴えたままだ。
（俺ももう歳かなァ）
　内心でひとりごち、布団を出る。ところで紘之助は御年88歳、とっくに立派な”歳”だ。
（90手前にもなって、何言ってんだ俺ァ）
　くだらないことを考えるのも、寝付けないせいだろうか。
　このまま、寝返りばかり繰り返すよりは、と。
　寝間着のまま、紘之助は稽古場へと足を向けた。

　稽古場の静寂を、窓から差す月影が照らしていた。
　聞こえてくるのは、虫の声だけ。それはどこか遠く、耳に染むような穏やかさがあった。
　奥に飾られた一本の刀が、月明かりの中に浮かび上がっているのに視線が向いた。
　それはかつての友に打ってもらった、無銘の一振りだ。
　この静けさの中、そいつを眺めるのも乙なものかもしれない。
　なんとはなしの考えに足を踏み出すと、床がキィときしみをあげる。歩みに合わせて響くその音は、虫のソレに似ているようにも思えた。
　無銘を手に取ろうと、腕を伸ばす。
　キィ、と。
「……誰でェ」
　背後から鼓膜を刺したその音に、紘之助は振り返る。
　月の光で区切られた、闇の向こう。そこから染み出すように、一つの影が現れる。
　長着に袴に、髷に結われた白髪。そして、腰に佩いた一振りの刀。
　その鯉口は、切られている。
　夜闇に紛れた盗っ人にしては、あまりに時代錯誤が過ぎる出で立ち。そよ風ほどの気配も感じさせぬ間に、背後へと現れたその神出鬼没。
　およそ、人ではあり得まい。
「……危ねェ夢ばかり、よく見やがるぜ」
　小さなため息を一つこぼして、無銘を手に取る。
　この手の白昼夢の類は、これで何度目か。
　収まる気配はなく、むしろ切っ先が喉元へ近づいてくるように、日を追うごとに現実感は増すばかり。
　あるいはもし、夢でないのだとしたら。その切っ先が、確かにそこに在るものだとしたら。
　それは現実が、紘之助を殺そうとしているのだろう。
　人の恨みを買うようなことは、散々やってきた。
　当然の報いと言われれば、言い返す余地はない。
　……だが。
　影の男が、すらりと刀を抜き放つ。顕になった刀身は、二つ目の月と見紛うばかりに冴え渡る。
　突きつけられる冷たい閃きに、しかし爺は不敵に笑った。
「死んでやる気はねえんだよ。孫の一人立ちをこの目で見届けるまではなァ」
　無銘を抜き放つ。
　全身の肌が、産毛の一本一本が、空気の動き一つ逃さぬほどに研ぎ澄まされていく。
　虫の音はやがて聞こえなくなり、しかし目の前の影の、微かな息遣いすら逃さない。
　波一つない水面のように、静謐で張り詰めた空気が辺りを満たしたその時。
　雲が月を覆ったか、稽古場に闇が落ちる。
　切っ先をごく僅かに下げる紘之助。その刹那、影が踏み込んだ。
　空気が弾けるほどの踏み込みで、刀が閃く。
　上体を狙う一閃に、紘之助はほんの半歩ほど身体をずらす。
　無銘の鎬で刀を受ければ、響くのは澄んだ金音。
　男の刀が右へと流され、残滓のごとく火花が散った。
　払った姿勢から、水が流れるように静かに。そして一切の淀みなく。
　紘之助が、踏み込む。

　再び射した月が照らしたのは、崩折れる影の背中だった。
　血払いをして、紘之助は呆れたように一つ呟く。
「今どき物の怪たぁ流行らねえぜ、お侍さんよ」
　影は、闇に溶けるように消えていった。

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