茜空の向こう側｜リアクション

茜空の向こう側

◆名前を呼んで

「ここは……？」
　宮祀智瑜は辺りの光景に首を傾げた。
　夕暮れに見蕩れていたことまでは覚えている。
　けれど今、その夕暮れは壁の中で染まり、辺りは暗く、宿るのは優しげな灯り。
　階段を下りた先も、足が向かう方へただ、歩いて行くだけ。
「ここはどこ……？」
　見覚えは微かに。けれど覚えは余りない。
　けれど歩んだ先に居た人たちは違っていた。
　仲睦まじく歩く男女の姿。
　背ではあったけど、でも――、

「お父さん？　お母さん？」

　間違えるはずがない。
　紛れもなく智瑜の両親たちだったのだ。
　智瑜の尋ねた言葉に男女が振り返る。
　視線が合った時には、智瑜はもう駆け出していた。
「会いたかった！」
　もう会えないと知っていても、心の中ではずっと求めていた。
　会いたい、会いたいと。　
「……あら、私達が見えるの？」
　問うた女性の声は間違いなく、記憶に残る懐かしい母の声。
　智瑜がそれを失くしてしまったのは小学生の頃だった。
　その日はいつもと同じように『いってきます！』と両親に元気に告げて家を出た。
『いってらっしゃい』は当たり前にあった。
　だから帰れば当たり前に『おかえり』があるものだと信じて疑うこともなくて。
　けれど、崩れたのもその人だった。
　亡くなった、と報告を受けただけで、入ってくるはずがなかった。
　当たり前を失う感覚を智瑜は今まで知らなかったのだから。
　聞かされたその日は涙も出なくて、これは夢で、明日にはいつもが待っていると信じて眠った。

　けれど現実は変わることはない。
『いってらっしゃい』も『おかえり』もない、ただ目を閉じたままの二人。
　言葉はなかった、無言で対面をして。
　そしてぷつりと糸が切れたように、泣き続けた。
　夢でもいいから会いたいと願い続けて。けれど夢すらもそれを許してはくれなかった。
　会いたい気持ちだけが募っていた、なのに、今。
「頑張ったのね」
　女性はふわりと笑んで、そっと智瑜を抱きしめてくれる。
　あたたかくて、優しいぬくもり。懐かしい匂い。
「離れていたけどずっと見守っていたよ」
　男性は、優しく智瑜を頭を撫でてくれる。
　望みが目の前に在る、そこに居るのだ。　
　あの頃に戻ったみたいだと、智瑜は母の腕の中で思う。
　嬉しくて、嬉しくて嬉しくて涙が溢れてくる。
　止まらない。
　ぬくもりに包まれたままで、智瑜は願いを口にする。
「名前を呼んで欲しいの」
　ずっと呼ばれてない名前。
　その音だけが自分の中で少し薄れてしまっていて。
　欲しいと、願った。強く、強く。

『智瑜』

　温もりが紡いでくれるその音は自らが愛されていた証。
　響いて、沁みていく。
　嬉しい。嬉しい。
　単純で、けれど純粋な気持ち。
　次に零れたのは先程の涙ではなく、笑顔の方だった。
　綻んで、満面の笑顔になる。
　次の願いは届けたい――名前をくれたこの人達に。
「お父さん、お母さん、ありがとう……」
　偽りない、今の気持ちを余すこと無く。
「大好きっ！」
　言葉を紡げば、私たちもと返ってくる。
　二人も智瑜もずっとずっと笑顔のまま。
　会えるはずの無い存在、けれど確かに出会えたのだ。
　この不思議な場所で、大切な家族に。
　呼ばれた自らの名は染みるように心に刻まれた。

　この日を、この時を、智瑜は決して忘れる事はないだろう。