少し、昔の話をしよう｜リアクション

少し、昔の話をしよう

　ハッと、過去へと心を飛ばしていた自分に気付く。
　そうして、岡瀬靖久は、軽く握った拳を額へと当てた。
（……あの夜から、昔の事を思い出しちゃうんだよね）
　今では、感謝してるけれど、と、靖久は、ふ、とほんの僅かに口元を緩めた。

◇

　それは、高校３年生の時のことだった。
（薫子さん……？）
　同級生の恋人・薫子が、サッカー部のキャプテンと、甘く口付けを交わしている。
　夕暮れ時の、校舎裏での出来事だ。
　薫子の華やぐ声が聞こえた気がして、追いかけて、声をかけようとして。
　けれど、それが叶う前に、靖久は目前に、薫子と自分ではない相手の逢瀬を突き付けられた。
　向こうはどちらも、靖久には気付いていない。
　故に、唇を離してもなお、薫子達は仲睦まじく、２人きりである筈の時間を過ごしていた。
　薫子が、自身の腕を、相手の腕へと絡ませる。
　一歩、よろめくように後ずさったのに、我に返って。
　靖久は、元来た道を、ずんずんと辿った。
（……そうか。最近、彼女がよそよそしくなったのは……）
　その理由を、顔面に叩きつけられたような心地がした。
　靖久は、バスケ部のキャプテンだ。
　プロを目指していたが、そこへ辿り着くには程遠いと自覚し、その夢を諦めた。
　思えば、薫子が靖久に対して冷淡になったのは、「プロの道を諦めようと思う」と伝えてからだ。
（結局、彼女は僕でなく、僕の将来に興味があったのかな）
　そんなことを、思う。
　思いながらも、靖久の足は、彼を遠く遠くへと運ぼうとしていた。

「薫子さん……別れよう」
　後日、靖久は、薫子へと、理由を告げることなく別れを切り出した。
「私は別れたくないけれど……でも、引き留めて靖久くんを悲しませたくないから……わかった」
　美しい唇を歪め、目を細める彼女は、靖久に理由を尋ねることすらしない。
　やはりキープだったんだな、と、胸が冷えた水に浸されたような心地が、靖久を襲った。

　バスケ部を引退し、薫子とも別れて。
　靖久は、自分が何をしたいのかが、自分でもわからなくなってしまった。そんな折、
「なあ、靖久。ディスコにさ、行ってみねえ？」
　靖久が心を彷徨わせているのを察してか、友人の一人が、そんなことを言い出した。
「え？　でも、僕達は……」
「高校生だけど、大丈夫、何とかなるって！　な？　行ってみようぜ！」
　半ばは押し切られる形で向かった、東京のディスコ。
　靖久は、無我夢中で踊った。鬱憤を晴らすように、熱く、激しく。
　ダンスの経験はなかったが、バスケ部時代に培った跳躍力や体力は、靖久の味方だ。
　熱を帯びた彼の踊りは、誰にも真似できないような、独特の形を取って、この世に立ち現われた。
「君、ちょっといいかな？」
　転機は、友人に付き合って休憩しようとしたその時、訪れた。
　声をかけてきたのは、海を思わせる青色の瞳をした男だった。
　顔立ちから日本人でないのがわかったが、靖久へと零す日本語は流暢だ。
「お、おい、靖久……」
　友人が、何故だか緊張に上擦るような声をして、靖久の肩を掴む。
　男はその友人にも、それから靖久にも、優しい笑みを向けてみせた。
「ヤスヒサ、と言うんだね。ねえ、君……俺の、バックダンサーにならないかい？」
　話を聞けば、男は、有名なアーティストだった。
　友人が慌てたのも、彼の顔を知っていたからであるらしい。
　男の話を聞いた靖久は、迷うことなく頷いた。
「やります。やらせてください」
　かくして、靖久は、高校卒業と共にダンスの世界に足を踏み入れることになったのだった。

◇

　単身アメリカに向かった時のことを思い出して、『今』の靖久は淡く苦笑する。
（何が転機になるか、わからないものだよね）
　そうして彼には今、愛しい妻がいて、可愛い娘がいて――傍らには変わらず、ダンスがあるのだ。