猫又川の狐化かし｜リアクション

猫又川の狐化かし

　大量のペットボトル浮きのついたライフジャケットを着せられて、化かされ男はざばりと高く浮かび上がる。何かを求めるように上に伸びた丸っこい手を、神無月文貴の手がしっかりとつかんだ。男はぐったりとして意識がない。
「ちっ！　水を飲んでやがる。まずいか……！」
太り気味の男の体重に水勢が加わって、浮かんでいてもなかなか引き寄せられない。文貴は懸命に踏ん張りながら男を抱え込もうとした。その元に、ロープで結ばれた浮き輪が投げ込まれた。薄野一月が綱の一端を持ち、叫んでいる。檜扇舞華もそれに加わった。
「つかんで！　引っ張るから！」
文貴は躊躇する。あの二人で俺たちを支えられるのか？　水勢さえなければ、ろっこんの力でおっさんを持ち上げることなどたやすい。浮き輪をつかんでしまっては、両手がふさがってしまいろっこんは使えない。
「早く！　何してるの、つかんでったら！」
叫ぶ二人の下に駆け寄り、はっしとロープをつかむ者があった。
「加勢するぜ！　神無組の！」
毒島柘榴はロープを命綱代わりに、男を抱える文貴に手を伸ばす。目を閉じ、ぴくりとも動かないずぶぬれの男と神無組の組長の姿がかすんで見えたのは、水しぶきのせいなどではなかった。

「っぐ……」
水の感覚が遠ざかり、柘榴の目には強制的に過去の記憶が映し出される。弱かったころ、小さかったころの自分。
「ぐおっ……！　俺が、いじめられてた時のことかよ……えげつないねぇ」
柘榴は自嘲する。泣く小さな自分の幻に、辛いか？　と問う。答えはないが、『彼』ならどう答えるか、知っていた。誓いを違えることなく、必ず『俺』は強くなるのだ。
「確かに、本当は俺は弱いさ、臆病ものさ……だがなぁ！　そんな奴でも守りてぇものがあるんだよ！」
泣く過去の少年は顔を上げる。柘榴は現実に自分を引き戻すため、懐のお守りを強く強く、握り締めた。妻がくれた、無病息災・健康祈願の守り。
（そうだ。俺はもういい年で、ちゃんと強くなって、守りたい女がいて、娘がいて……俺は俺なんだ！）
「手を！」
柘榴と文貴は、互いの腕をしっかりとつかんだ。

「おっさん！　死ぬな、戻って来い！」
　柘榴は懸命に人工呼吸と心臓マッサージを繰り返す。その横で、市橋誉も必死に男を励まし続けた。声が必ず届くと信じて。
「目ェ覚ませ！　甘い夢に溺れるな！　あんたの見てる人はココにはいないんだよ！」
ややあって水を吐き出し、二、三度激しく咳き込むと、男はゆっくりと目を開いた。
「柘榴くん。……文貴くん。それに、君も……助けてくれたのか？」
柘榴と文貴、そしてそばにいた一月と誉に問いかけた。誉は大きくうなずく。
「おじさん。信じたいものだけ見てちゃだめだ。これじゃだめなんだよ」
「がんばろうよー。現実は見たくないものとかいろいろあるけどさ」
一月は濡れ鼠の男をそう言って励ました。
「少し休んだら、立てるか？　行こうぜ」
文貴は男の傍らに片ひざ立ちで座る。『化かされおっさん』を助けただけでは解決にならない。彼を狐に引き合わせ、これほどまでに続く狐化かしの真実を突き止める必要があった。

　狐は見ていた。いつも自分が招く男が、今日も同じように川にはまっていくのを。男は穏やかな顔だ。人の姿に化けて、得意の目くらましをかければ、フツウの人間は自分に気づくことがない。いつもと同じ光景だ。いつもと同じ楽しみだ。男はいつも許してくれる。こんな自分を認めてくれる。幸せな時間だった。
　だが今日の化かしは台無しだ。おかしな連中が男を川から連れ出してしまった。狐は純朴そうな少年に化けたその顔を醜くゆがめた。
「おのれ！　あいつら、どうしてくれよう……」
顔をしかめて苦々しげに言う姿は、まるで性悪の老人のようだ。腹いせに奪ってきた稲荷寿司をことさらに汚く食い散らかしていた。