翠雨染め｜リアクション

翠雨染め

　日課となっているフィールドワーク。
　いきものの寝床、九夜山の環境が心無きモノの手で変わっていないか、そんないつもの目的で訪れる足音はいつもより少し急いて聞こえる。
　とある日を境に眼帯外された左目と共に、人のコースから外れ奥まった所までやってくれば、まるでやっと呼吸が出来たかのように大天使天吏から吐息が漏れた。
　眼帯が要らなくなったのは、憎しみの対象が己を突き落とした母親では無いモノたちへと移ったから。
　より深淵さを増して。
　しかし天吏はそのくすぶる炎を身の内にひた隠し、以前に比べ遥かに意識してヒトと関わり出した。
　憎しみの対象ブツたちへこそ、美しき微笑みを纏って。
　――　いつか来る日の為に。
　そんな己が決めた日々を過ごしていたつもりでも、くすぶる炎が拒否反応を起こすが如く天吏の身体はここ暫く、上手く酸素を取り込めていなかったのかもしれない。
　降りしきる雨。実りの秋に向けて森林を潤す大切な季節の音を、全身で感じ取れば久方ぶりに幸せそうな温度がその頬に灯る。
　――　もうすぐ渡り鳥がやってくるかもしれない。

　曇天の空に夢見るように羽ばたきの影を見れば、その顔にも冷たい雫は降り注ぐ。まるで泣きながら笑っているような横顔を創り出していた。
　……雨は嫌いではない。自然現象の一つに過ぎないから。
　人工物たる傘やレインコート、それこそが自然の恵みを遮る気がして、今の天吏は雨具を何一つ身に着けていなかった。
　山に慣れているゆえ、決して軽装備では無いものの、衣服たちが重く湿っていくのすら楽しむかのようにして、天吏はこの時期に見られる植物や生き物たちを順調に見つけては記していった。

　雨足と区切りの良いタイミングを見計らい、帰路に入れば寄り道などされないはずだった。
　天吏の曇天模様と同じ色の両眼が、今まで無かったものを映し出す。

「あら……こんなところに紫陽花、あったかしら」

　緑生い茂るこの場所において天吏でなければ見過ごされていたかもしれない、向こう側の葉たちを透かすアジサイの花弁を、しっかりと捉えて顔を寄せた。
　――　ノリウツギ、ガクウツギ、イワガラミとは違うし。一般的に花屋で見かけるエゾアジサイとも違う。
　植物学者たる父には及ばないものの、それでも一般より豊かな植物知識に照らし合わせてはその首が傾いだ。

「半透明……不思議ね、貴方」

　ごく当たり前のように語り掛ける。
　きっと、この島の不思議な力で森に迷い込んでしまったのだろう。そうすぐ思い至れば、巻き込まれた相手を慈しむように目を細めた。
　これを父に伝えれば面白いかもしれない。
　けれど、もれいびである自分の前に現れたのならそれは助けを求めているもの……。
　父に伝えるよりまず先に、出来る事があるのかもしれない。
　――　内緒にしておきましょう。
　クスリと微かな音をさせてから、半透明なアジサイへと再び口を開いた。

「こんばんわ、紫陽花さん。ふふ、素敵な島にようこそ」

　そう紡がれた天吏の口元は一瞬、ほんの一瞬、歪んだ笑みを形作る。
　――　そう、この島は本当に素敵。
　神が下りてきて、その神の守護神ともう一人の神が対立し……そして消えた。
　消すべき相手を見誤った島。その島民たち。
　浮き上がってくる黒き感情をすぐに心に沈ませようとするも、ありのままの天吏を受け入れるようにしてただ耳を傾けているふうな、揺れる花弁を見つめるとほんの少し乱れた心の水面が落ち着いた気がした。

「貴方は素敵だわ。物言わぬ、素敵な植物」

　本心を口にしては、細い指先がゆっくりと伸ばされる。
　まだ何の色も纏わないアジサイ。どうなるかは分からないけれど、触れてみようという衝動に突き動かされた。
　今もなお自分と半透明な花弁へと降りしきる水滴。
　共に分かち合うようにしてその肌と揺れる花弁が触れ合った瞬間、ふと天吏の脳裏に羽搏く烏の姿が舞った気がした。

「……そう、貴方はこれを求めていたのね」

　触れ合った先から、まるで自身が侵蝕していくかのように徐々にアジサイの色が変わるのを、驚くでもなく見つめ見守る。
　やがて染まり切ったアジサイ。それは黒味がかったピーコックグリーン。
　何モノに染められたわけでは無い、自然が生み出す黒蝶真珠の如き色。
　このまま誰の手にも触れさせず在り続ける事を望むが如く、その色は雫すら弾くよう。
　その様を暫し眺めている内、か細い息と一緒に天吏の唇は何かを紡いだ気がした。
　誰にも聞こえない言の葉。濡れた黒羽根にのみ語りかけるように　――

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翠雨染め

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