●プロローグ


　うっすらとかかる霧の中に、甘みを帯びた香が漂っている。
　深山幽谷を川で遡り、桃の巨木の根元に空いた洞穴の先で、麓の村の道士見習いだという男、ジンと遭遇した一行は、一度洞穴の外に出て、桃の巨木の太い根にめいめい腰かけて、状況把握をすることにした。


「あれ、あたしは日本に帰ろうと思ってたんだけど、いつのまにかガイドさんとはぐれてこんな山奥に……」
　神薙 焔は炎のような鮮やかな赤毛を掻き上げる。
　紅燈火街でランタンお化けと対峙したのは大変だったが、その後はツアー客の一員としてガイドについて日本に戻るつもりだった。ところが気づけば、見知らぬ川辺で、一緒にランタンと戦ったコたちの中にいることに、首を傾げること数度。
　思い切りよく頬を叩いて状況を受け入れる。
「まあいいわ。あたしも随分こういうことに巻き込まれてきた。細かいこと気にしたってしょうがない！」
　見上げれば霧の合間ごしに、崖の岩肌が見え、木製の柵や黒く四角い窓が並んでいるのがわかる。
「あれが『青の幽玄』とかいう村？　へえ、崖に張り付くように岩肌に部屋を掘って住居としているのね。古い石造りの景色、面白いわね――」
　スマホを取り出し起動させる。圏外だがカメラ機能は使えるようだ。
　シャッターを切る。
　霧の中に切れ切れに映った崖の村は美しく、絶景というに相応しかったが、その全貌を知るには霧がかかり過ぎていた。

　R&Rと同盟を結ぶかたちになったLeidenschaftのメンバーたちは目配せしあって、情報収集のためジンに聞き込みを始める。
「村の中は僵尸（キョンシー）で溢れてるってぇ話だが……詳しい話を、聞かせてくれないか」
　ブルーのジャケットを羽織ったLeidenschaftリーダーの如月 庚は、麓の村の道士見習いだというジンのそばにしゃがみ込んで、青みがかった黒い前髪の狭間から切れ長の目を覗かせる。
「まず、村のことを教えて貰いてぇ……あんた、村にはよく行くのか？」
　喧嘩で鳴らした鋭い眼光に、ジンの丸眼鏡の奥の糸目が、びくっと脅えた。
「い、いえ。青の幽玄の人々はあまり余所者を好まないので……縄梯子の上にあがったのは今日がはじめてで、村の中のことはほとんど知りません」
　今度は志波 武道が穏やかに尋ねる。
「ジンさんの師匠はなんの用事でこの村に行くことになったんかな？　一週間前なら僵尸がらみじゃないんでショ？」
「修行のためです。師匠――ウン・ウェンダオは麓の村で道士として霊を鎮め、病を治し、村の人々に尽くす傍ら、いつか仙境にて暮らし、不老不死を得てまことの仙人になることを目指していました」
「仙人修行、ですかー」
　屋敷野 梢が、ふぅんとさして興味もなさそうに相槌を打つ。
「はい。師匠といえども、歴史上の名だたる神仙たちに比すればまだまだ修行の身。年に一度ほど、修行と称してひとりで青の幽玄へ出かけることがありました。崖の上の村こそまさに仙境の地と考えていたようです」
「ところがその師匠が戻ってこない、と」
「ええ。此度は三、四日で戻ると言い置いて出かけたにも関わらず……。今までこんなことはなかったので心配になり、こうして私が出向いたというわけです」
　事情を説明するジンに、庚は指先で桃の木の根を叩きながらさらに尋ねた。
「青の幽玄てぇのは、不老不死信仰があると聞いてきたが……知ってたら教えてくれねぇか」
「私も詳しくはありませんが……この村の天師が説くのは『人の死はかりそめ。人は死してなお生き続ける』という教えだとか。師匠はそれを、仙人への道……仙道と考えていたようです。ただ、私には道教と似て非なる信仰のようにも思われました」
　ふむ、と唸ったのは八神 修だ。
「桃……仙桃……。此処は崑崙に至る道、か。像は西王母として奉じたいのか……」
　崑崙とは、中国の西方にあると考えられた古代神話上の霊山で、不死の仙女、西王母が治める仙界である。西王母。崑崙。不死。仙人。キーワードは共鳴する。ただ、ジンのいう『道教と似て非なる』というのはどういうことだろう。聞いてみたが、ジンはただ首を横に振るばかり。
「『村の人々はみな死を超越している』……そんな話もしていましたが、本当なのかどうか」
　彼もはっきりとは説明できないようだ。村をじかに見れば何かわかるだろうか。
　修が思索の世界に入り込んだので、庚が別の質問をした。
「僵尸についてはどうだ？　それに伴った伝承や宗教があるのかどうか」
「僵尸に纏わる話はついぞ耳にしたことはありません」

　ここまで静かに話を聞いていた新田 亮が、ジンにいくつかの質問をした。

「中の様子はほとんど知らないって言ってたが、村の簡単な地図を描いてもらうのは無理か？」
「すみません。ただ、師匠から、村の最奥には聖域があると聞いています。また時折霞が切れたときは、村の端と端に塔があるのが見えます」
「俺たちは『零神像』という神像を探しに来たんだが、そいつが村の持ち込まれたか、また今何処にあるのかは知らないか？」
「零神像、ですか……申し訳ありません。その件については、まったく存じ上げません」
「いったい村に何が起こったと思う？　どうして僵尸だらけになってるんだ？」
　ジンは首を横に振る。
「見当もつきません。私の方が聞きたいです」
　亮は、ふぅ、とため息を吐いた。
　ことの核心についての情報は、村の中に飛び込んでみなければわからないようだ。
　しかし、と亮は考える。道士なら、僵尸については知っているんじゃないか？
「僵尸についてあんたの知ってることを教えてくれないか」
「僵尸とは、とても簡単に言うと、動く死者です。我々の道教では、人間には、精神を司る気である『魂』と、肉体を司る気である『魄』が宿っていると考えます。死ぬと魂も魄も人の器から離れますが、死してなお『魄』のみが宿ってしまった状態の肉体が僵尸と呼ばれるものです。魄のみのものは、『鬼』――よくないものです」
「どうやって倒す？　急所はないのか？」
「一般には、銃や剣による攻撃は効かないと言われています。ただ、桃の木でこしらえた桃木剣は邪悪な霊を払う力があり、僵尸にも効くそうです。それから、映画などで知られるように、額に札を貼ることで制することができると言われています」
「札か。それを分けてはもらえないか？」
「あいにく今は持ち合わせがなく……。ですが、私も道士のはしくれ、黄色い紙と鶏の血があれば、その札を拵えることは可能です」
　わかった、と仲間たちに目配せする。材料を集めるのはなんとかなるだろう。
「ところで」と亮が最後の質問をする。
「僵尸に見つからない方法ってあるのか？」
　するとブリジット・アーチャーが口を挟んだ。
「キョンシーってあのピョンピョン飛び跳ねる中国版ゾンビよね。息止めてたら見つからないんだったかしら？」
　ええ、とジンが頷く。
「僵尸は視力が弱く、人間の呼気を感じ取ると言われています。ですから、呼吸を止めれば、僵尸をやり過ごすことができるようです」
「なるほど……」
　こうして僵尸についての一般知識を仕入れると、亮は再び黙り込んだ。
　事前の準備がものを言うことになりそうだ。
「僕が先行して軽く偵察してこよう」
　瞬間移動のろっこん＜斬空赤刃＞の持ち主であるサキリ・デイジーカッターが申し出る。
「お願い」
　坂内 梨香が頷くや否や、サキリはナイフを空間を切り裂くように振い、その場から掻き消えた。
　それを見てジンが目を丸くする。
「あなた方は……！？」
　もれいびだのろっこんだのと説明してもこの中国の辺境の道士には理解できないだろうと思った梨香は、ウィンクをしてしらっと言った。
「ふふ。私たち日本から来た魔法使いなの。お互いの目的のために協力しましょ？」