夢の続き｜リアクション

夢の続き

　淡いオレンジ色が空に広がる。シーサイドタウンの通りを佐和崎紗月は制服姿で歩いていた。長くなった自身の影を見るとはなしに眺めている。
　ふと視線が右手に流れた。スカートを鍵盤に見立てて滑らかに指を動かす。儚い笑みが口元に浮かんだ。
　顔を上げた。正面から吹き付ける風を嫌って、すぐさま横に向く。灰色の立方体が目に留まった。銀色の扉に掛けられた『ＯＰＥＮ』の札に引き寄せられる。
　小首を傾げた状態でドアノブを握った。

　薄暗い中に出た。一歩を踏み出して気が付く。純白のロングドレスを着ていた。
「このドレスは……」
　戸惑いながらも歩を進めた。舞台裏のようなところを進み、前方に光を認める。その明るさに足が止まってしまった。
　視線の先には重厚なグランドピアノが置かれていた。椅子には誰も座っておらず、ピアニストの登場を密かに待ち侘びているようだった。
「……もしかして私？」
　口にした途端、表情が強張った。両手で頬を挟み、軽く揉み解す。
　目は光を求めた。柔らかい笑みを意識して一歩を踏み出した。
　光の中、全身に拍手を浴びた。紗月はステージの中央に立ち、観客と向き合う。
　最前列の人々の顔がはっきりと見える。顎髭を蓄えた人物が優しい眼差しで拍手を送っていた。右隣の席には少年がいて夢中になって手を叩く。老夫婦は笑顔を絶やさずにのんびりとした様子で何度も手を合わせる。
　目は奥へと向かった。なだらかな斜面の途中に二階があり、独立した三階へと広がりを見せる。
　巨大なコンサートホールに臆することなく、紗月は優雅な仕草で一礼した。
　流れるような動きで椅子に座る。それに合わせて拍手は鳴り止んだ。
　白い鍵盤に左手をそっと載せる。右手を添えた瞬間、頭の中に曲がふわりと舞い降りた。
　――ドビュッシー作、アラベスク第一番。
　指が軽やかに弾む。澄んだ小川の流れに小さな光の粒が流れてゆく。緩く曲がってせせらぎとなり、徐々に力強さを増して独特な奥行きを持たせた。人の感情のように深く、指は詩的な音色で観客に語り掛ける。
　時に甘くて切ない、幻想でしか見られないような絶景を音色で表した。
　弾いている紗月も幻想の世界に誘われた。
　――こんな音は、自分には出せない。こんな鮮やかな世界を創れない。
　これは私の夢。決して手の届かない美しい夢の世界なのね。
　微かな笑みで美しい世界を創る。多くの世界をピアノで表現した。
　演奏の終わりが近づく。一音毎に想いを込める。
　――私の夢が終わる。ピアニストの夢に幕が下りる。
　才能が足りなかった。高校でピアノを専攻したけれど、上には上がいた。
　最後の曲は激しく、華やかに突き進む。頭を上下に振って渾身の力を鍵盤に叩き付けた。
　――来年には普通の大学生になっている。音大には進まない。
　でも、今は……この美しい夢の中では、私が最高のピアニストになるわ！
　上体の動きに力強さが加わった。満ち溢れる生命力をピアノに注ぎ込み、荘厳な世界が顕現される。
　紗月は椅子から何度も腰を浮かせた。観客は固唾を呑んで見守った。
　最後の一音を放ち、頭が後ろに弾かれた。飛び散る丸い汗が宝石のように煌めく。
「……綺麗ね」
　呟きの中、割れんばかりの拍手が降り注ぐ。
　紗月は静かに眠るように瞼を閉じた。

　そっと瞼を開くとシーサイドタウンの通りにいた。制服姿で佇んでいる。ぼんやりとした目で辺りを見回す。灰色の建物はどこにもなかった。
「そういうことね」
　吐き出すように言った。
　少し俯いた姿で歩き出す。
「……さよなら、私の夢」
　その語尾は微かに震えていた。