Mother's Day でやりたくなる｜リアクション

Mother's Day でやりたくなる

　その道は極端に細い。薄暗い上に不快な臭いが漂っている。
　佐藤英二は敢えて踏み込んだ。人が寄り付かないところを選んで歩く。
「今日の僕はどうかしている……」
　邪念を振り払うように頭を振った。抗う程に先程の場面が強く思い出される。
　――まさか、あの御剣君が、信じられなかった。いきなり女性に抱き付いた。しかも相手の胸を掴んで……。
　力を使い果たしたかのように足が止まる。
「……あの御剣君が抗えないのだから、僕がおっば、いや、それは違う！」
　目は瞬間的に前後を見た。誰もいない。安堵の息を吐いた。
　――この道を選んだのは正解だ。買いたい物があったが、今日は諦めて桜花寮に戻ろう。
　誰にも会わないで部屋に引き籠もっていれば、おかしなことにはならない。
　白いパーカーのフードを頭に深々と被せる。視界が狭くなった。
「これで安心だ」
　下げていた頭を少し上げた。道の先が眩しく見える。
　――明るいと言えば、野々さんはどうしているのだろう。青空の下をばっひゅーんと笑顔で駆け回っているのかな。
　とても元気がいいから胸も弾ん、じゃない！
　フードの上からガリガリと頭を掻いた。
「なんてことを考えるんだ！」
　目を伏せた。足元にあった小石を蹴り飛ばす。目にした電信柱に何度も額を打ち付けた。あまりの痛さに両手で押さえる。
　――痛いけど、痛くない！
　がばっと顔を上げた。
「振り絞れ、マイ理性！　限界を超えて燃え上がれ、僕の常識心！」
　完熟トマトのような顔の赤さで叫んだ。息を荒げて歩き出す。
　明るい通りに出て右に行こうとして踵を返した。
　――無理だ。あっちには若い女性がいる。しかも胸元が開いた服を着ているじゃないか。
　視界に入れるのも危ない。遠回りになるが仕方ないか。
　迅速な対応を見せる。英二は大きく迂回した。途切れそうな道を強引に進んで住宅街に入り込む。
　近くから声が聞こえた。瞬間、右手に顔を向けた。小さな男の子が道に絵を描いている。
「……心臓に悪い」
　胸を押さえて足早に歩く。前方に人影は見えない。表情には笑みが浮かぶ。腕の振りが大きくなった。
　英二は走った。丁字路を右手に折れれば数分と掛からない。
　――桜花寮まであと少し。僕は常識人でいられる。ああ、光の中に野々さんが見えるようだ。
「まさか！？」
　表情が一瞬で強張る。急激に速度を落とし、その場で凍り付いた。
　脇道から野々ののこが現れたのだ。
　英二は目だけを動かした。
　――こんな時に限って。隠れるところはないし、どうすれば。
「あっちの道にしようかな」
　ののこは道を横切ろうとした。英二は止めていた息を緩やかに吐き出す。
　――助かった。残念だけど、これで良かったんだ。
　儚い笑みでののこの姿を見ていた。
　その時、民家の庭にいた子犬が吠えた。
「どこのワンちゃん？」
　ののこがあどけない顔で振り返る。英二は瞬時に頭を下げた。
「そこにいるのは、英二くん？」
「え、それって誰？」
　声を変えて来た道へと引き返す。
「絶対、英二くんだよ！」
　その声が急速に迫ってきた。相手に合わせて英二も走り出す。
「私が鬼の役だね！　英二くんは本気で逃げないと、すぐに捕まっちゃうよ！」
「違う、俺は英二じゃない！」
「ロケットばっひゅーん！」

　ののこの笑顔の追走が始まった。英二はフードを脱いで全力で逃げる。
　二人だけの鬼ごっこの始まりであった。