寝子ヶ海浜公園喧嘩奇譚｜リアクション

寝子ヶ海浜公園喧嘩奇譚

　新たな人質

「おい、あのカップルどこ行った？」
　新と対峙していたリーダー、勝アゲルが標的の不在に気づいた。まだ巻き上げるべきものを巻き上げていないのに標的を見失ってしまうとは何たる不覚。
　新が繰り出す拳をいなし、チィッと大きく舌打ちする。
　裏地の赤い改造制服を着た不良男子のひとりが、ベンチで足を組んで座っているさゆるに目を付けた。
「ようよう姉ちゃん、怖くねぇのかよ」
「……」
　さゆるは無視を決め込む。
　だが、当然、不良男子はそれでは面白くない。さゆるのつま先から頭の先までを、嬲るような視線で舐め回し、下種な笑い声をあげる。
「ひっひっひ。もしかしてちびっちまって立てねぇのか？」
　気だるげに睫毛をあげる。動揺はない。以前にもこういう目には遭っている。
　馴れた、というのとは少し違うのかもしれない。相手の脅し文句が安っぽすぎるのだ。
「いいぜぇ。あんたは今から俺らの人質だ。オイ！」
　不良男子は懐から折り畳みナイフを取り出し、さゆるの首に押し当てた。
「てめぇら、大人しく金出せや！　こいつがどうなってもいいのか？」
「人質だぁ？　初対面のやつ人質にして通じると思ってんのか？」
　源三が眉を上げた。由貴奈もハッタリをかます。
「そうだよぉ、その人はうちと全く関係ない赤の他人、人質は無意味だよぉ？　助けに入ったのは寝覚めが悪いと思っただけだし……」
「へへっ。イイ子ちゃんどもが。実際にこいつが傷ついても同じこと言えるのか？」
　不良はぐい、とさゆるの顎を乱暴に持ち上げ、柔肌にナイフを食いこませた。
　さゆるの瞳に怯えはない。ただ、心の奥のどす黒い何かが音もなく首をもたげるのを感じるだけだ。
　そのとき、反対側のベンチにいた老人がゆっくりと立ち上がった。
「こらこら、そこまでにしときなさい」
「ジジイ、引っ込んでろ」
　不良はしっしっと犬でも追い払うような仕草をするが、老人は止まらない。
「散歩がてらに海浜公園まで来て見りゃなんだ。喧嘩なんて今日日珍しいなァ感心感心とベンチに座って眺めていたんだが、どうも片方はあまり乗り気じゃねぇようだ。終いにゃ金だ、人質だときちゃあ、さすがに見ていられないねぇ」
「見ていられねぇならとっとと失せろよ」
「いやいや、そうはいかん。喧嘩ってのは楽しくするもんだと体に教え込んでやらんと、なァ！」
　不良は、この老人の大きく欠けた右耳に、もっと注意を払うべきだった。
　伊織紘之助。この人こそは、新陰流の流れを汲む古流の武術『庵流』の八代目家元なのである。
　足運びだけとっても無駄な動きはひとつもない。舞い落ちる木の葉のひとつを払うかのような洗練された軽妙さで、紘之助は不良を投げ飛ばす。
　不良は辛うじて受け身を取り、回転して立ち上がると、折り畳みナイフで紘之助に反撃しようとした。
　だが、その手にナイフはない。
「何っ」
　ナイフはいつの間にかさゆるが奪っていた。
　気怠くも冷たい眼差しで不良を見ている。
「……人質ごっこは終わりよ」
　不良はさゆるを、か弱い兎ではなく、獰猛な豹だと認識した。悪意と敵意がさゆるに刺さる。次の瞬間さゆるのろっこん『Stella cadente』が発動し、戦闘時に必要な反応速度が著しく跳ね上がった。背後から飛びかかってきた別の不良の攻撃を紙一重でかわし、ナイフで刺すと見せかけて、握った柄で鳩尾を殴りつける。
「お前さんやるなァ」
　紘之助はさゆるの動きに感心して、かかか、と笑った。
「俺も失敬して、こいつらにちっと灸を据えてやるかい。しかし、まァ前途ある若者だからな、優しく治るように壊してやるさァ」