五月の風に吹かれて｜リアクション

五月の風に吹かれて

　桜花寮の一室、カーテンが淡い光に包まれた。二段ベッドで仰向けに寝ていた初瀬川理緒がもぞもぞと動き出す。目覚めを拒絶するかのように掛布団を軽く引き上げた。
　瞼が強張る。唇を強く引き結び、一気に緊張を解いた。
「……眠いのに、なんで目が覚めるのよ」
　不機嫌な声で上体を起こす。机上の時計は午前八時を示していた。
「早すぎるよ……」
　昨日の出来事が苦々しく頭に浮かぶ。
　――昨日はＤＶＤの撮影で、せっかくの土曜日が無くなったのよね。女子高生グラドルとして人気が出るのはいいんだけど、忙し過ぎるのもどうかと思うわ。
　ぼんやりとした目がカーテンに流れた。朝陽に照らされて最高の天気を思わせた。
　ほのぼのとした様子に眠気が顔に表れる。理緒は軽く頭を振ってベッドから抜け出した。早々に着替えを済ませる。
　トップスには桃色のブラウスを選んだ。袖口がギャザーになっている。ボトムスは青いフレアスカートで軽やかさを醸し出す。
「日曜日くらい、自由に過ごしたいよね」
　軽い口調で理緒は部屋を出ていった。

　大きな歩幅で軽快に街中をゆく。ポニーテールが左右に揺れた。自ずと大きな胸も弾む。
　――どこに行こうかな。
　微笑むような目を方々に向けた。春らしい装いの人々の中を突っ切って進む。
　――どこでもいいよね。
　力強い足取りで道なりに歩いていった。
「ん、これは？」
　足が止まりそうになる。嗅ぎ付けた鼻が一方へと向いた。道に設けられた駐車スペースに一台のワゴンが停まっていた。近づくとソーセージの焼ける音が聞こえてきた。客の一人が紙に包まれた大振りのホットドッグを受け取った。
　理緒は生唾を呑んだ。はっと気付いたように踵を返す。
　――あたしは現役のグラドルなのよ。あんな高カロリー、食べるわけにはいかないわ。照りのあるソーセージにトマトソースをあんなに掛けて。しかもマスタードに、あの色はマヨネーズよね。
　本当に頭にくるわ。なんであんなに美味しそうなのよ。
「……え？」
　胸中の怒りの声は褒め言葉に摩り替った。
　焦ったような表情で理緒は逃走を図る。決して振り返らず、前のめりで足を速めた。
　ラーメン屋から香しい醤油の匂いが漂ってくる。
　和菓子屋からは甘い匂いが風によって運ばれてきた。
　誘惑の手がそこかしこから伸びてきて理緒を引き留めようとする。本人は顔を小刻みに振って拒んだ。半ば走るようにして振り払う。
　正面から風が吹き付けてきた。海風は全てを吹き飛ばす。
　理緒は防風林を越えた。スカートの裾を軽く翻し、斜面を駆け降りた。
　ようやく落ち着いたという風にゆっくりと歩き出す。真っ新な砂浜に足跡を刻む。
「……ここでいいかな」
　海に語り掛けるような口調で立ち止まる。その場に腰を下ろすと凪の状態の海を眺めた。
　遠くの方に小さな波頭を見つけた。自然に溜息が漏れる。
　――気持ちいい風は吹いているけど、サーフィンができるような波はないわね。
　ぼんやりとした目で両足を身体に引き寄せた。穏やかな海と向き合う。出そうになった欠伸は奥歯で噛み締めた。
　膝頭の上に手を重ねる。そこに頬を乗せた。瞼は間もなく閉じられた。
「……海の囁きが、聞こえる……みたい……」
　ささやかな波の音は子守唄となった。意識を深い海へと沈めてゆく。
　大海原に抱かれた理緒は安らかな寝息を立てた。

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