五月の風に吹かれて｜リアクション

五月の風に吹かれて

「天気のええ日は外に出な損やろ」
　部屋の窓から身を乗り出した輝楽弥生が空に向かって言い切った。黄緑色の釣り目を見開いて大きく息を吸い込んだ。朝陽を浴びた頭が明るいオレンジ色に輝く。
「ほな、九夜山に行くで」
　部屋に引っ込んだ弥生は即座に行動に移した。着ていたパジャマを脱ぎ捨ててＴシャツとジーパン姿になった。押入れに突っ込んでいたリュックサックを引っ張り出し、可能な限りの画材を詰め込む。
「うちに逆らったらあかんで！」
　溢れる画材は踏み付けて従わせる。膨らんだリュックサックを背負うと部屋から足早に出ていった。
　その勢いで外に出て、数分と経たずに戻ってきた。
「飲みもんないと干からびるわ」
　手にした水筒にジュースを注ぎ入れる。リュックサックの側面のポケットに収めると二度目の外出となった。
　その数分後、お約束のように舞い戻る。
「食べもんないと餓死するわ」
　台所で目に付いた物を適当に組み合わせて容器に詰める。リュックサックの中に無理矢理に捻じ込む。半ばやけくその態で飛び出していった。
　更に数分が経った。弥生は戻って来なかった。本当の意味で外出を果たしたのだった。

　旧市街の入り組んだ道を颯爽と歩く。愛用のスケッチブックを脇に抱えていた。模写の対象になりそうな物に目を向けるものの、立ち止まることはなかった。
「あかんな。もっと感性にビシバシくるもんやないと」
　頻りに頷いて素早く角を曲がる。トンネルを突っ切ると登山道入口駅が見えてきた。背中のリュックサックを軽く背負い直す。
　――あれに乗ったら山頂はすぐやな。でもな、スケッチできそうな場所を素っ飛ばしてもうたら、来た意味がないんや。
　目に付いた山道まで行く。奥の方を見ると急な上りが暗がりに消えるまで続いていた。
「無理はあかんな」
　くるりと回ってサイドテールを振った。真っ直ぐに駅へと向かう。弥生は券売機で切符を買ってロープウェーに乗り込んだ。
　間もなくしてゴンドラは動き出した。ゆっくりと流れる景色に、ええやん、と声を上げた。スケッチブックを開いて素早く描き込む。
　砂掛谷駅の近くでは古い旅館を目当てに加速する。水彩色鉛筆が渋い色合いの建物を画用紙に収めていった。
「大変やわ」
　ゴンドラの後方に慌てて移動した。対象が見えなくなるまで必死に食い下がる。
「ギリギリやなぁ」
　細部を思い出しながら描き足しているとゴンドラは展望台前駅に到着した。スケッチブックを閉じて急いで降りた。
　早速、駅の周辺に目をやる。
「展望台はどこや？」
　不思議そうな声を出して歩き始めた。左右に木々が生い茂る。可憐な花に目がいった。黄色い花粉に塗れた蜂が蜜を吸っていた。
「ちょっと、ええんとちゃうか」
　道端にしゃがんでスケッチブックを開いた。花弁を中心に手早く描いていく。手が止まると蜂は飛び立った。
　弥生は立ち上がると山頂を目指す。案内板を頼りに足を動かした。
「意外と、足にくるもんやな」
　リュックサックの重みもあるのか。前傾姿勢となって歩を進めた。
　急に視界が開けた。見晴らしの良さそうな場所に展望台が見える。
「ようやくやな」
　頂上に着いたことを実感して笑みが浮かぶ。足に力が戻り、小走りで展望台に上がった。
　吹き付ける風に目を細める。
「ええ風や。眺めも最高やな」
　スケッチブックは開かなかった。リュックサックを下ろして容器を引っ張り出す。蓋を開けるとサンドイッチがぎっしりと入っていた。一つを取り出して中程まで齧ると小気味よい音がした。
「祖母の揚げたカツは最高やな」
　少し喉に詰まり掛けて水筒のジュースを飲んだ。人心地が付いたという風に息を吐き出す。
　弥生はカツサンドを頬張る。口の端に付いたソースを舌で舐め取った。
「……ほんまにええ眺めや。創作の悩みも消し飛ぶで」
　言葉は風に乗って空へと舞い上がった。

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