平穏なれ、曝書の季節｜リアクション

平穏なれ、曝書の季節

「この前……悪かった」
突然、弓弦原譲がぽつりと言った。七草八兵衛は思わず聞き返す。
「え？　何のこと？」
「屋上で。読んでる本について聞かれたが、結果的に無視してしまった」
自分がこうなのだから、他人も自分に興味がないのは仕方なかろう。そう考えていただけに、この言葉は八兵衛にとっては意外に過ぎた。
「あ、ああ。いいよ、もう。気にしないでほしいな」
「七草はどんな本を読むんだ」
多少会話はかみ合わないものの、聞かれないと答えなかった譲が、自ら質問を発している。八兵衛の驚きに、さらに驚きが重ねられた。
「俺は最近、ミステリーにハマっている。歴史小説も好きだな。物語に深みと説得力さえあれば、フィクションとノンフィクションの別は問わん。……興味があるならどれか貸すが？」
譲は堰を切ったように話し出す。八兵衛の中で、今まで無色のイメージしかなかった弓弦原譲と言う人間が突然に個性を現し、たちまち彼独特の色彩で彩られていった。
「……ああ。あんまり真剣に読んだことないんだよね。弓弦原クンのお勧めがあれば」
一方的に話し続ける人間は苦手だが、なぜか譲だといやな感じはしない。もっと会話を続けてみたい。八兵衛はそう思い始めていた。譲はわかった、今度持って来る、と答えたきり黙る。また二人の視線はしばらくの間傷んだ古書に落ちるだけとなった。

「……島での生活は、どうだ」
どれほど経ったか、再び沈黙を破ったのは譲だった。ほんの少しだけどう答えようか迷って、でも結局、八兵衛は自分の心情をほぼそのまま伝えることにした。
「別にー。好きで来たわけじゃないしね」
「俺もだ」
「えっ!?」
どこかでそうかもしれない、とは思っていた。だが譲の答えに、思わず言葉が詰まる。
「……俺もだ。だが、存外悪くない。静かに暮らせる、それだけで十分だ。神魂だのもれいびだのわけのわからない出来事には辟易するが、少なくともここは……あの家より暮らしやすい」
うっすらと微笑を浮かべているようにすら見える表情で、譲は作業の手も止めずに続けた。
「俺を要らんという世界や、俺が要らんという世界より、俺自身が選んだ世界の方が心地いい」
八兵衛はその言葉にはっとする。

そうだ。選択はいつも自分自身のものだ。

「そっか。俺も選ぼうかなぁ」
思うだけだったはずの言葉がするりと口から出てきた。この同級生は、対岸の人間ではない。同じ側に立って、遠くから世界を見ている人間なんだ、と思った。それがわかると、ふっと心が軽くなったような気がする。

　譲もまた、寝子島にやってきてから初めて、隣り合って居心地のいい他者と出会ったように感じていた。複雑な生い立ちから、自我のなすりつけ合い、ぶつけ合いばかりを見せつけられてきた彼は、人との交流に期待はしていなかったというのに。自分が、何の気負いもなく八兵衛と会話できていることが不思議だった。
（おかしなものだ。七草といるとまったく窮屈な感じがしない。似たもの同士、ということなのだろうか）
「俺たち、クラスで浮いてるよな」
前置きもなく、ずばりと切り出す譲に八兵衛がぷっと吹き出す。
「なにそれ。自覚あったんだ」
「まあそんなことは……もうどうでもいいな。七草、高校を出たらどうするつもりだ」
「俺？　まだ考えてはないけどさ……とりあえず実家に帰らずに済めばいいかな。親もいないしね。弓弦原クンは？」
「俺は、さっさと金をためて独立したい。実家の会社は妹が婿養子をもらえば済む話だ」
「ふうん。自立ねぇ。弓弦原クンの家って裕福なんじゃないの？」
「その家が問題でな……」
二人の話は、まだまだ続きそうだ。