あなたと巡り合ってから｜リアクション

あなたと巡り合ってから

　視線の先には微笑ましい日常があった。
　それは寝子島ではとてもとてもありふれていて、平穏故に見ている側まで心温まる風景だった。
　ヨハン・プレストンはそんな絵に描いたような光景に、脳裏に去来する過去に、足が地面に縫い止められたようにその場から動けなかった。

…※…

　去年のある雨の日。
　アスファルトに叩き落された雨粒は弾けて飛散し、道路脇の道端は白く烟（けぶ）っている。
　人々の往来は無く、車のエンジン音さえ無慈悲に響き、水溜りを走る車輪は水飛沫を高々と飛ばして過ぎ去っていった。
　雨の冷たさが持つ傘を伝ってヨハンの肌に届く。
　彼は動けなかった。
　動けないまま、道端の草むらに無造作と置かれた段ボールを見下ろしていた。
　申し訳程度に敷かれたバスタオルは、雨を凌ぐ屋根も無い為に、ぐっしょりと濡れてその役目をまったく果たしておらず、逆に段ボールの中に子猫達の体温を奪うようで、小さな鳴き声はいよいよもって激しいものと化していた。
　放置された段ボールと親の気配を感じさせない子猫達。その組み合わせから、それが捨て猫の類だと推測するには容易い。
　鳴く事しかできない子猫。
　凍える寒さから温もりを求めて、側に居るヨハンに「みーみー」と必死になっている。
　頼られても、彼はただただ無力感に、それを見下ろしたままだった。
「……」
　沈黙に被る雨音と鳴き声。遠くでサイレンが響く。
　やがてヨハンは持っていた傘を段ボールに被せるように側に崩れかけいたブロック塀に立てかけて、そのまま去った。
　最後の一瞥も向けずに、鳴き声が聞こえなくなっても振り返らずに、去ったのだ。
　わかっていたのかもしれない。きっとそこであの猫達を助けてもなにもならない事を。自分で育てることはしないと自覚があるだけに。
　ただ、このまま寂しい景色で終わるものではないだろう。子猫達はそのうち自力で段ボールを抜け出すかもしれないし、他の人間が拾い上げてくれるかもしれない。
　そんな可能性に望みはまだあると、世界は結構上手に回るのだから。
「……」
　それでもヨハンの沈黙は続く。
　帰宅に玄関を後ろ手に閉めても、彼が口を開くことは難しいのか。
　部屋へと移動し飼い犬のジョンとハムスターのクラリックの姿を認めると、彼等に見つめられていることにヨハンは気づいた。
　そして、考える。
　今、子猫達を飼ったら、犬のジョンと何があるかわからないし、
　ハムスターのクラリックは飼育ゲージに入っていても安全とは言い切れない。
　致し方ないと、自分を納得させるように理由をつけて、ヨハンは気持ちを整理する。
　余裕が無い人間が安易に飼育しようとするのは駄目なのだ。生き物とは命とは、決して妥協できない一線が存在している。

　翌日、道端の草むらには昨日の段ボールは傘ごとなくなっていた。
　幸いにも誰かに拾われたのだろうか。
　それとも悲しい結末を迎えてしまったのだろうか。
　雨は、まだ降っている。

…※…

　それから一年後。同じ場所に立つヨハンは、再び動けなくなっていた。
　あの日の雨が過去のものだと知らしめるように、空は雲一つない真っ青な晴天。
　ヨハンが向ける視線の先には、ある飼い主と散歩をしている猫達がいた。
「……」
　とても暖かそうで、楽しそうにヨハンの目に映る。優しい世界。
　ふと、大きくなった猫達と目が合った。
　なんとなく、猫達から睨まれたように見えて、ヨハンはあの雨の日のようにただ口を閉ざしたままで。
「…………」
　しばらく目を合わせた後、ヨハンは猫達に背を向けた。
　胸に湧く言葉（感情）を閉ざし、そして歩きだした。
　全てを飲み込んだヨハンのその瞳は、最後まで感情を灯すことはなかった。

そうか、
お前らは、幸せをつかんだか。