【お花見】しづ心なく花の散るらむ｜リアクション

【お花見】しづ心なく花の散るらむ

　新田亮は両膝に手を当てて咳き込んでいた。すぐ目の前では、桜花寮の門に手をついた詠寛美が、やはりはーはーと息を切らしている。
「あーくそ……なかなか速いな、詠は」
「いつも……走り込んでる……からな」
　寛美の言葉も途切れ途切れた。
「といってもま……俺がズルしたようなもんだが……」
　素直に寛美はそんなことを言う。そうして、少年のように歯を見せている。彼女にはどことなくクールなイメージを抱いていたので、寛美のそんな表情が亮には意外だった。といっても驚きは顔に出さずに、
「次こそ……はぁ……絶対勝って……やるからな」
　特に意図したわけではないが、『次』という言葉を亮は口にしていた。
　亮は壁に手を当てて体を支える。相当疲れていた。
「そうだ、自販機」
　約束を思い出し、亮は周囲にジュースの自販機を探そうとするも、
「いらねーよ、別に」
　短く告げると寛美は片手を振ったのである。じゃあな、と手を振ってもう歩き始めている。
「待てよ、でも約束は約束」
「新田、そもそも俺は、お前の賭けに乗ったわけじゃねーし」
「だったらなんで……？」
　すると寛美は足を止め、振り返るや牡鹿のように堂々と告げたのである。
「お前と同じだよ、新田」
　薄笑みが寛美の唇に浮かんでいる。がさつな口調で無愛想な詠寛美なのに――可愛い――と亮は思った。
「走りたいと思ったから。それだけだ」

　やあ、と空に、語りかけるように見上げる。
　いい天気だ。心も軽い。
　それもそのはず、南戸河蔵人は本日、いくらか懐が温かいのだ。

　原稿料、それも、定期ではなく臨時の仕事のものなので、臨時収入というものを手にしていたのである。
　ATMに下ろしに行った帰りだが、このまま帰るのは勿体ないような気がしていた。なのでぶらりと足を、桜川の方向へ向けたというわけだ。
　手をかざして川を見やる。
　おお、屋形船だ。
「桜川で屋形船なんか出てたんだなぁ」
　身近な場所でも意外と知らないことってのは多いもんだ、そう想う。
　よしよし、せっかくだし川下りをしながら花見といこうじゃないか。予算なら多少は余裕がある。
　ところがそんな気分は、いきなりつまずきそうになる。
「なんだ、この船もダメなのか……」
　大抵の屋形船が小型で、今日はそろってチャーター便らしい。貸し切りで船上花見会というわけだろう。優雅な話ではないか。しかしそれは、単身者の蔵人にとっては少々厳しい状況だ。乗れる船がないということだから。
　そんな中で彼は、ランチを食べられる乗り合い船をようやく見つけた。
「まだ昼には早い時間だけど……そうか、次の便はもう予約でいっぱいか」
　なら仕方ない。蔵人は船に乗り込んだ。まださほど空腹ではないものの、一杯やればなんとかなるだろうと考える。
　その予想は、当たっていた。
「うーん、いいねえ、船から見上げる桜ってのも」
　コップ一杯の冷や酒を、ぐっとあおって蔵人は熱い息をついた。
　凝った瑠璃の杯でも出れば最高だったが、船で用意された杯はただのガラス製、それも、ビール会社のロゴマークが入ったものでしかなかった。けれどこれはこれで、趣深いものがあるではないかと思う。酒の肴は天麩羅だ。これまた、揚げたてサクサクとはいかずしっとり気味で歯触りも良くないが、むしろそのひなびた感じが旅情を誘う。
「ゆっくりと流れる景色も乙なもんだ。酒もうまくなるし、すすむってもんだね」
　酒のおかわりをして、とろんとした目で桜を見やる。
　桜を見ていると時の流れを感じずにはおれない。昨日満開だと思ったものが、もう散りはじめているではないか。
　だが桜は散り際が一番美しい、この儚さがいいのだ。
　屋形船はゆっくりと進んでいる。上下にゆったり揺れているのが、さらなる酔いをもたらしてくれる。それに、少々の睡魔も。
　ここで一句、といきたいところだがさて……蔵人は首をかしげた。
　酒のせいか、いまいちいい言葉が出てこない。
　船を降りたら、酔い覚ましにしばらく歩こうかなぁ。