【お花見】桜の下で待ち合わせ｜リアクション

【お花見】桜の下で待ち合わせ

　志鷹佑都が医療用衣である紺色のスクラブ姿のまま寝子島総合病院の中庭に出た頃には、空は茜色に染まっていた。
(今日は休日、……の筈だったのにな)
　その貴重な一日は、朝食を終えて少し寛ごうと部屋に戻った途端、病院からの緊急呼び出しによって終了している。
　呼び出されて勤務先の病院に朝から駆け込むなり、患者の処置にかかりきりになった。気づけば夕刻、その頃になってやっと患者の容体が落ち着いた。
　ようやく得た安息の時間を風に当たって過ごそうと決め、病院の敷地内に枝を伸ばす桜の樹の下に向かう。
　病院の敷地に生えているだけあって、様々な患者の人生を見守ってきたであろう、黄昏の色にも染まらぬ薄紅の花の下に立って、
(そういえば)
　思い出した。今日は、同じ病院に小児科医として勤める双子の姉、志鷹若菜から花見に誘われていたのだった。
　珍しく休日が重なったというのに、付き合えなかった。
(一人で楽しめただろうか)
　鮮やかな翠の瞳をもたげ、夕陽に煌めく薄紅の花弁を映す。健やかで、けれどどこかしら儚い花の群に見惚れる。束の間であっても、春の僅かな間に咲く花を楽しんで起きたかった。
(――もうすぐ君の誕生日、だな……)
　花に想うは、……否、花に想うも、亡くした恋人。
　あの日、優しい春の夕陽の中、ふたりで桜を見た。
(そう、こんな桜だった)
　通っていた故郷の大学の近くにある公園にも、こんな桜が立っていた。
　桜が吹雪となって舞い散る、四月五日。その日は彼女の誕生日だった。恋仲になって初めて迎えた春の日に、桜樹の下で彼女と待ち合わせた。
　――怖い顔してどうしたの？
　ワンピースを春風に揺らして現れた彼女に顔を覗き込まれて笑われた。
　――誕生日おめでとう。これ……
　今になって、思う。いくら悩んだ末に決めたブレスレットを片手に緊張していたとは言え、あの時、もっと笑って言えれば良かった。
　きっと『怖い顔』をしていただろうに、彼女は嬉しそうに微笑んでくれた。
　――……ありがとう。開けてもいい？
　自身の夢に真摯に向き合うがゆえに、謙虚な女性だった。遠慮がちに、それでも嬉しさを隠し切れない横顔がとても美しかった。
　酷く儚く見えたのは、夕陽に照らされた桜を背景にしていたせいだったのだろうか。
　少なくとも、その時はそう思った。
　抱きしめた腕からするりと抜け出し、翼を広げて空へ飛んで行ってしまう、そんな情景さえ幻視した。だから彼女の名を呼び、振り向く彼女を彼女への贈り物ごときつく抱きしめた。離すまいと、きつくきつく。華奢な身体の温もりを確かめるように。
　――どうしたの……？
　身じろぎもできぬほどに抱きしめられ、驚きに息を詰まらせる彼女と視線を重ねる。そうするうちに、彼女の白い頬は見る間に薄紅に染まった。澄んだ瞳が優しく濡れた。
　――居なくなるような、気がした
　不安を苦笑混じりに漏らして、また笑われた。明るく優しく、本当によく笑う女性だった。
　――居なくならないよ。居なくなったり、しない
　あの日、桜の下で初めて唇を重ねた。
　桜の下で交わした約束は、けれど守ることはできなかった。
　あの日の約束に想いを馳せる。桜の下で交わした口づけに想いを馳せる。
「……」
　ふ、と唇が小さく笑んだ。
　緩んだ唇を片手で抑えて隠したところで、
「志鷹先生！」
　中庭の出入り口に立った看護士に呼ばれた。はい、と応じ、佑都は深呼吸ひとつして気持ちを切り替える。
(感傷に浸っている暇はないようだ)
　あの日とよく似た桜吹雪を長躯に浴びつつ、踵を返す。
(……今度帰省したら逢いに行こうか)
　帰る頃には、葉桜になっているだろうか。
　それでも、あの桜はあの日のように優しく迎えてくれる気がした。今はもう永遠に見ることのかなわない優しい笑顔を想わせてくれる、そんな気がした。