賽の目の憂鬱｜リアクション

賽の目の憂鬱

　深倉理紗子の今日は仕事が休みだった。
　なので今、シーサイドタウン駅前のバス停に停まっているバスに乗って出発時間を待っている。
　この日は常に無い所用を済ます為、寝子島の外へと赴く予定があった。
　使用する交通手段にねこでんもあるが、そちらではなくバスを利用しようと思ったのは、なんとなくそうしたかったから、という春風が起こした気まぐれが原因だったかもしれない。
　座席で落ち着くと持っていた文庫を鞄から取り出し広げる。挟んでいた栞を抜き読み止めていた場所から読書を再開させて三行ほど読み進めた時に、やけにあたたかい感触が理沙子の足首に絡みついた。
　ひゃぁと驚きに両肩を聳やかした理沙子が身を屈めて感触の正体を突き止めようとしたのと、
　その感触の正体が理沙子に向かって「にゃー」と甘えるような鳴き声を発したのはほぼ同時だった。
　ね、こ？　と理沙子の唇が呆気に開いたまま音もなく疑問の声を漏らす。
　そんな理沙子に「にゃー」と大正解とばかりにその黒白の猫はご機嫌に応えた。
　しかも、だ。吊り上がった綺麗な瞳は上目遣いに理沙子を仰ぎ、「お姉ちゃん、抱っこ」と訴えかけるがごとく何度か鳴くではないか。
　車内中に響き渡るような張り上げる声ではなく、恋人に睦言を交わすような秘め事を願うようなとてもささやかなささやかな鳴き声で。
　その魅惑の狂おしさたるや、流石は愛玩動物と謳われるだけある。
　願われて請われて擦り寄られて、どう抗おう。
　気づけば理沙子は猫を抱き上げていた。
　文庫を鞄に押し込むように戻し、猫を外に連れ出すため下車しようと今まさに理沙子が席を立とうとした瞬間、バスの二つのドアが無情にも閉まった。
　そして「発車します」のアナウンスと共に緩やかにバスは動き出した。
「え、ちょっと……？」
　声に出さずにはいられなかった。把握しようとした現状はあまりに突飛で、戸惑いが勝る。
　五センチほど浮いていたお尻をすとんと落とし、漠然とした不安感に茫然となった。
　運転手が猫の乗車に気づかなかった。
　他の乗客も関わることをためらったのか皆無言のまま理沙子に視線も向けない。
　猫は理沙子の腕に甘え、ごろごろと喉を鳴らしている。まるで親の庇護を受けた子供のように全幅の信頼を寄せられた気がして、「どうしよう」と理沙子は弱気になった。
（どうするの？　このままこの猫と一緒に島の外へ……？）
　成り行きに任せるならそうなる事になる。ただ可能性としては仮に運転手に見つかった場合、猫を持ち込んだと誤解されバスから追い出されるのだろうか。
　いや、いくらなんでも追い出されるのは飛躍し過ぎか。
　しかし、自分は猫と共にバスを利用した経験などなくどうなるか想像もつかない。未経験故に想像はネガティブ路線まっしぐらである。
　性格由来のヘタレ具合もあってか、開き直るのは愚か割り切ることも柔軟に順応することもできず、臆病にも尻込みする思考に理沙子は既に自分が崖の上で追い詰められている心境に陥っていた。
　泣きそう、とまではいかないものの、瞬きの回数が尋常じゃない。
　なかなかに挙動不審だが、うつむく彼女の表情は前髪に隠れて心情と同じく周囲には露程にも知られることはなかった。
「……もう、人の気も知らないで」
　こんな形で猫の気まぐれに巻き込まれた理沙子は恨めしく思うものの、自分に甘える猫を邪険にもできず、諦念含んだ声でこのまま暴れずただ大人しくしていることを願うのみであった。
　結局、猫と一緒に目的地に着くまで生きた心地がしなかった理沙子は、帰りも同じ気分を味わう事になった。
　黒白毛色の猫は兎に角理沙子に甘え倒し離れず彼女を困らせていたにも関わらずシーサイドタウン駅前に戻るとあっと言う間に雑踏の向こうへと消えていった。
　その時の理沙子が理不尽さと開放感に吐息したのは言うまでもなかった。