今日から転校生｜リアクション

今日から転校生

★木天蓼工業高校★

　晴れない靄のような物が漂っている。机は格好の足の置き場となっていた。
　日暮ねむるは黒板を背にして立っていた。ぎこちない笑みを浮かべて一つ咳をした。気にする者はいなかった。
　最後尾では男子が金属バットを振っている。丸い物体を何度も強打したような凹みが見て取れた。
「えっと、ひ、日暮ねむると言います。よろしく～……」
　何の反応もない。担任の先生は逃げるように去っていったので、ねむるは空いている席に勝手に座った。溜息と共に背は曲がり、組んだ手の上に額を乗せる。
　――どうしてこうなったんだ。普通に寝坊した。うん、そこまではいい。いや、よくはないんだけど普通の範疇だね。罰として鬼熊の拳骨を食らって、それでマタ工の転入生になった。
　なるほど、全くわからないね。ん、もしかして、これは夢なのか？
　思い付いた瞬間、表情に自信が溢れる。
　――本当の僕は、ふかふかの布団の中で眠っている。そうだよ、この状況は悪い夢なんだ。眠ることで悪夢から逃れ、現実に戻れるはず。
「ふ、ふふふ」
　ねむるの薄笑いに何人かは気付き、鼻筋に不機嫌そうな皺を寄せた。

　一時間目は数学だった。先生と思われる小さな老人が現れた。緩慢な動きは見ているだけで眠気を誘う。
　ねむるは速やかに寝る体勢に入った。両腕を枕に見立てて、こめかみを乗せた。数分後、苦み走った表情となった。瞼がピクピクと動く。
　――全く眠れる気がしねぇ！
　老人の声が静かな呪詛のように耳に入り込む。後方からは麻雀牌を掻き混ぜるような音が聞こえてきた。ポン、チー、と怒声に等しい声が上がる。壊れたような笑いが断続的に重なった。
　――ここは地獄か。生きながら堕ちた生き地獄なのか。
　絶対、教室なんかじゃない。狂気が逆巻く狂室だ。
　ゆらりと頭を起こす。先生の覇気のない目が待っていた。枯れ枝のような人差し指を向けて口をもごもごと動かした。
「問題を解けば、いいんですよね？」
　先生は目を皺くちゃにした。笑っている様子に安心して席を立つ。
　ねむるは黒板に書かれた問題を前にして呆然となった。
　――数学は苦手な僕だけど、さすがに九九は答えられるよ。パズルっぽくしてあるけどさ。
　空白の部分にチョークで答えを書いていく。すると騒々しさが僅かに緩和された。
「マジになんじゃねぇよ」
「出来るわけねぇだろ」
　単発的なヤジが飛ぶ。構うことなく、ねむるは全ての空白を数字で埋めた。横にいた先生に目をやると、正解、と聞き取れる声で言った。
　全ての声が一変した。凄まじい称賛となって、ねむるを包み込む。神業や神童の言葉が妙に照れ臭く、すぐに振り返ることが出来なかった。
　――僕くらいの学力で、こんなに喜ばれるなんてさ。案外、マタ工生ってのも悪くないかもしれないな。
　ねむるは踵を返した。大柄な連中が押し寄せてきた。思わず、身構える。
「オマエ、すげえよ！」
「感動したぜ！」
「やるじゃねぇか！」
　強引な握手の連続に手が腫れた。肩が脱臼するくらいに叩かれた。悪鬼のような連中は皆が笑顔で、そこに一切の悪意は含まれていなかった。
「あのぉ、お手柔らかに」
　そのような声を圧し折るような勢いで抱き付かれ、グエッ、と声が漏れた。

　何事もなく放課後を迎えた。
「帰るのか？　もっと、ゆっくりしていけよ」
「僕もすることがあるからね」
　引き止める声をやんわりと振り払い、ねむるは教室を出ようとした。
「待てよ」
　声のした方に目を向ける。精悍な顔立ちの男子が歩いてきた。指先で鍵を回していた。
「俺の単車で送ってやるよ」
「いいのかい？」
「ダチの為だからな」
　二人は肩を組んで教室を後にした。

　駐車場に野太い排気音が響き渡る。一声もなく、バイクは走り出した。ねむるは鷹をあしらったヘルメットを被って後部にいた。
「落ちんじゃねぇぞ！」
「もちろんだよ！」
　二人は笑顔で怒鳴り合って寝子島を目指した。