寝子島、アクアアルタの夜｜リアクション

寝子島、アクアアルタの夜

● プロローグ

「こんな素敵な夜に家の中になんかいられないわ」

　城山水樹のこの一言が、この夜を端的に示していた。
　水に覆われた寝子島の夜を眺め見る。
　今宵、街は一変していた。景色も匂いも。
　木天蓼大学のあたりも、シーサイドタウンも、場所によっては、くるぶしほどの高さまで一面水に覆われてしまっている。潮の香り。夜を迎えて昏く広がる水面に、煌く星々が映り込む様のなんと眩いことか。
　この日、突然起こったアクアアルタと呼ばれる異常潮位は、宵闇の頃を迎えても続いていた。
　まるで７月のようなあたたかさに押し入れから引っ張り出してきたサンダルを脱ぐと、ひたひたと緩やかに押し寄せる波が、水樹のつま先をくすぐる。
　手にはランタン。気分は気まぐれ。
　同じように宛てなく彷徨う男たちに時折声を掛けられるも「既に予約済みなの」と可愛らしくお断りしながら、水樹は水の感触を楽しみながら街中を歩いてみる。
「おひとりさまも悪くないわ」
　こんな素敵な夜なのに、彼氏は北海道で仕事中。
　せめてこの景色の片鱗だけでも送ろうか、などと考えながらとスマホでパチリと写真を撮る。
　遠くの海をランタンを掲げた釣り船やゴンドラがすれ違う美しい光景。
　そこに、浴衣の少女が映り込んでいた。

「こんばんは。いい夜ね」
　フラッシュの煌きに振り向き、桃川圭花は水樹に向かって小首を傾げた。
　水樹はそれに微笑み返す。
「こんばんは。あなたもおひとりさまかしら？」
「そう。こんな素敵な夜に寮にいるなんて勿体なくて」
「その気持ちわかるわ」と水樹は言った。
　それから圭花の、アイオライトのような複雑なブルーに透かし彫り風の花を散らした浴衣と、その上に闇色をしたアラベスクのレースショールを羽織る着こなしに嘆息。
「素敵ね。こんな夜にぴったりだわ」
「ありがとう。七夕みたいな夜だからせっかくだしと思って、夏買った浴衣を出してきちゃった」
　小さく舌を出す圭花。それから上目遣いに水樹に訊いた。
「もしよかったら、おひとりさま同士、夜の散歩なんてどうかしら？」
　水樹は頷く。
「ええ。喜んで」

◇

　そのころ、ねこったーでは「#季節外れの七夕 #水上演奏会」とタグ付けされた情報が回っていた。

　　＜参加者募集＞アクアアルタの夜ならではの小さな水上演奏会を催します。
　　待ち合わせ場所はイソラ・ガレッジャンテ、時間は……

　発信主はシグレ・ナイトウォーカー。
「気温は温暖、風波は穏やか、それならゴンドラで海に漕ぎ出すのも、船上で楽器演奏するのも不可能じゃなかろう。折角なら海へ漕ぎ出し月を愛で音を楽しむ水上演奏会と洒落込もうじゃないか」
　星ヶ丘寮の自室で、いくつかの返信を確認したシグレは、人数に見合ったゴンドラ、それに船上の明かりとしてランタンを手配して、自身もヴァイオリンケースを手に出かける準備を整える。
「……っと。隣人を忘れちゃいけない」
　シグレはバルコニーの窓を開けると、手すりを蹴って隣のバルコニーにひらり。
　窓をコツコツとノックすれば、カーテンが開いて神嶋征一郎の気難しい顔がのぞく。
「また自分のバルコニーから……寮が隣とはいえ、いい加減ドアからノックして入れウォーカー」
　窓を開くなり飛び出す憎まれ口を躱して、シグレは自信に満ちた笑みを浮かべる。
　なぜなら、深い海色の髪をした異彩のヴァイオリニストは、自分の誘いを断らないと知っているから。