寝子島、アクアアルタの夜｜リアクション

寝子島、アクアアルタの夜

● 水上演奏会・１

　来島アカリが喧嘩友達の獅子目悠月の赤い髪を見かけたのは、水上演奏会の待ち合わせ場所である星ヶ丘のイソラ・ガレッジャンテへ向かう道すがらであった。

「あれ、獅子目？　何だ、お前もねこったー見て演奏会に行くのか？」
　人見知りのために一人で行くのに躊躇のあったアカリは、内心では知り合いがいて良かった、と思いつつも、それを隠してぶっきらぼうに話しかける。
　悠月が蝋燭と楽譜を手にしていたので、てっきり同じ行き先かと思ったのだが、当の悠月からは、
「演奏会……？」
　と疑問形の声が返ってきた。
「違うのか？　ねこったーで、ゴンドラを借りて水上演奏会をやるって言ってたろ……」
　仔細を話すと、悠月は身を乗り出すようにアカリに迫った。
「そんなものがあるのか。おい来島、俺もそこへ連れていけ」
「ちょ、近いって」
　顔を寄せられ、アカリは鼻白む。
　悠月は、はた、と我に返って、手にしていた楽譜をアカリに見せた。
「っと……悪い。ゴンドラを貸し出していると聞いたから、カンツォーネを歌いたいと思ってたんだ」
　楽譜はイタリア語の歌のようだ。
　これは何？　と悠月を見ると、彼は、知らないのか、と言わんばかりに小鼻を膨らませた。
「カンツォーネってのはイタリア語で『歌』って意味だ。ヴェネツィアなんかでは、水路を渡るゴンドラで観光客相手に歌ってくれたりするらしい」
　月下にゴンドラでカンツォーネなぞ、歌うことが何よりも好きな悠月にとっては、この上なく魅惑的なことだ。またとない機会であるし、どうせならイタリア語で歌ってみたいと、昼間のうちにいそいそと幾つかのカンツォーネ楽曲を調べておいたのである。
「……獅子目、なんかいきいきしてる」
「ふん、お前は今日は聞き役として行くんだろう」
「ま、ね。音楽聞くのは好きだけど、演奏したり歌うのはさっぱり……だから、漕ぎ手で」
「なら今日だけは喧嘩しないでやる。たぶん」
　いつもならなにかと挑発的な悠月が、こんな殊勝なことを言うなんて。
「……お前が喧嘩吹っ掛けて来ないとか、変な感じ」
　アカリは思わずくすっと笑った。

　イソラ・ガレッジャンテの集合場所には、ヴァイオリンケースを下げたシグレと征一郎、それからクラシック同好会の一員である中学三年生の藍川慶介がいた。この演奏会の発案者が以前別の場所で共闘したことのあるシグレだと知って、悠月は驚きののち、楽しみになった。
「これもミューズの導きか？」
　アカリと悠月が合流してまもなく、桧垣万里と黒依アリーセも連れだって現れた。
　木天蓼大生でありメイド喫茶『ねこのて』の店長代理でもある万里は、その手にピクニックバスケットを下げている。
「水上音楽会なんて素敵ね。私は歌や楽器演奏ができるというわけではないけど、ゴンドラの漕ぎ手、純粋に音楽を楽しむ聴き手として参加させてもらえたら嬉しいな」
　あとでお茶も振る舞うわ、と万里。
「楽しみです」
　と、ソプラノサックスのケースを手にしたアリーセが言った。
　アリーセの笑みは、薄くスライスされた宝石をステンドグラスの要領で繋いで作った神秘的な宝石ランタンに照らされて、とりどりの色に変化して見える。
「もしかして自作なの？」
　万里が尋ねるとアリーセは頷いた。シグレの呼びかけを、アリーセは叔母の工房『落陽』で見たのだった。
　アリーセがデザインしたのはムーンストーンで作られた白猫と、アメジストで作られた黒猫。角形のランタンの四つの面がそれぞれ違う図案になっている。万里はうっとりと蝋燭の火に揺らぐ小さな窓を見つめた。
「お散歩する二匹、寄り添って月を見上げる二匹、星空で寝る二匹、ベンチでキス……この子達、恋人なのね」
「上手くすれば壁にも絵柄が浮かぶの」
「とっても素敵」
　
　万里とアリーセのさざ波みたいなお喋りを遮って、これで全員だな、とシグレが言った。
「初対面のメンバーも多いが、今宵は水上演奏会にお集まりいただき恐悦至極ってな」
　片手をひらり、サーカスの団長のように優雅に翻しながらお辞儀をする。
　もっとも年若い慶介が、おずおずとみんなを見渡した。
「わ、七人も集まったんだ……えっと、ほとんどは寝子島高校の先輩……なのかな？」
「私と君以外は、そうみたい」
　万里がやさしくウィンクする。シグレが緊張して固まっている慶介の肩をぽんと叩いた。
「肩肘張らず、ゆるりと楽しもう。良い夜にしようぜ」
　慶介はシグレを見上げ、ほっとしたように頷く。
　こうして今宵かぎりの水上音楽団の七人は、めいめいゴンドラへ乗り込んだ。

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寝子島、アクアアルタの夜

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