黄色のファレノプシス｜リアクション

黄色のファレノプシス

　
　自分は止まっている。
　体と時は動いているのに、心の一部は壊れた時計の秒針のように過去に取り残されている。
　その止まった秒針が何を意味をしているのか、何故止まっているのか。
　神嶋征一郎は知っている。

「おや、征一郎だ」

　シーサイドタウンを歩いていた征一郎を嬉しそうに呼び止める声がした。
　後ろを振り返ると、水琴鈴を遊ばせ微笑む篠宮六花の姿があった。

「篠宮か、奇遇だな」
「ふふ、そうだね。小さな幸福が訪れると聞いていたけど、これはまた大きな幸福が来たものだ」

　そういって六花は黄色い水琴鈴を征一郎に見せた。
　征一郎はそれを見て、小さくフンと鼻を鳴らす。

「馬鹿馬鹿しい。噂は噂だ」

　実は征一郎も筆箱の中に黄色の蛍光ペンを潜ませているのだが、噂を信じていないという体で話す。

「そういえば征一郎、良い香りがする。これは……月橘かな」
「よくわかったな。そこで買ったんだ」

　そう言って征一郎がくいっと顎で勿忘草のプレートがかけられた扉を指し示す。

「一人で？」
「クラスメイトに誘われた」
「ふふ、きっとお前と違ってセンスのある友人だな」
「友人じゃねぇ。……興味があるなら、入ってみろ」

　ぶっきらぼうな言葉に促され、六花は迷うことなく扉に手をかけ中に入った。

「すごいなぁ、きらきらして……綺麗だ」

　六花がくるりと回るように橙色の柔らかい灯りに照らされ輝く香水瓶に囲まれた店の中を見渡す。
　その中で青い香水瓶が六花の目を惹いた。

「見てくれ征一郎、これ、お前の色だ」

　六花が棚から香水瓶をそっと手に取り、眩しそうに覗き込んでいると不意に声がかかった。

「それは『Bleuet』という香水でね」

　声がした方を振り向くと、カウンターに店主の由季也が立っていた。

「トリコロールの青、皇帝の花、褪せることのない蒼。矢車菊を指す言葉さ」

　由季也がテスターに香水を噴きつけ六花に渡す。

「爽やかだが……奥に甘さが隠れているような香りだ」
「主な香料はレモン、月桃、それにニオイヤグルマギク」
「ニオイヤグルマギク？矢車菊とは違うのか」
「ああ、その香水の香りは俺がイメージした矢車菊の香りなんだよ」
「……これの練り香水はあるか？」
「練り香水？」

　征一郎の問いに訊き返したのは店主の由季也ではなく、六花だった。

「和服の場合、噴きかけるタイプはつけ直すのが難しいよね。シミになっちゃうからさ。練り香水の方が扱いやすいと思うよ」

　征一郎の考えを代弁するかのように由季也が答え、銀色の丸い缶を持ってきた。
　缶に貼られたラベルには瓶と同じ蒼で矢車菊の花がアールヌーヴォー風に描かれてる。

「持っていくかい？」

　由季也の問いかけに頷いたのは征一郎だった。

「征一郎」
「なんだ」
「ありがとう。大晦日にはタキシードも借りてしまったし……」

　『Herbe d’ amour』から出てきた二人は寮のある星ヶ丘に向かって歩いていた。
　六花の手には征一郎が買った練り香水の缶が入った紙袋がさげられている。

「そうだ、クリーニングから返ってきたから返」
「あれはてめぇにくれてやったんだ」

　六花の言葉を遮り征一郎はぴしゃりと言い切る。

「それなら礼を」
「礼などいい」
「お前の為じゃない。俺は、お前と対等でいたい。借りを作ったままは嫌なんだ」

　その言葉にぴたりと征一郎の歩みが止まった。

「なら、お前の本当の『音』が聴きたい」

　征一郎の耳に今でも残る『ジュ・トゥ・ヴー』。
　幼い頃二人で演奏したあの曲、あの音色。
　そこから今の征一郎の音楽が始まったのだ。

（音楽の為に要らない物は全て切り捨ててきた。友人など、楽しいと思う感情など不必要。
だが自分は……本当は……）

　征一郎の手にそっと冷たいものが触れた。
　はっとして顔を上げると、それが黄色い水琴鈴だと気づく。

「いいぞ、約束する」

　六花は微笑み、水琴鈴を征一郎に握らせる。
　征一郎が止まった時を動かすことを自身が望んでいるということに気づいたように、六花もまた己の気持ちをはっきりと自覚していた。

（俺の幸福は、征一郎がいること）

　離れて、再び巡り会えて、変わったようで変わっていないことに気づいて。
　征一郎という存在が自身にとってどれだけ大きいものかを思い知った。

「それで征一郎に幸せが訪れるなら」

　六花の切なる願いに反応するように征一郎の手の中で水琴鈴の清らかで澄んだ音を響かせる。
　……それは恐らく、凍っていた時が溶けだしたことを知らせる始まりの音。

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黄色のファレノプシス

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